●孫の一言に脅えるお祖母さん




 

さて、今日は何を書こうかと、

テレビのニュースを見ていると、



 

新宿ゴールデン街で火事があって、

浮浪者らしき男が、建造物侵入の罪で逮捕されたという。





新宿ゴールデン街と言えば、

言わずと知れた東京都新宿区の一角にある賑やかな飲食店街である。



 


ここは夜になると、

ゲイバーやボッタクリバー、そして、

赤塚不二夫氏や、野坂昭如氏、大島渚氏や菅原文太氏が、かつて常連客として、

訪れていたという文化人が愛していたバーの数々があるという、



3種類のバーの顔を現し始める地でもある。



 

しかし、私はかつてこの地に、

もう1つの裏の顔があった事を、ある相談者から聞いて知っている。





今日はその時の話をしたいと思います。






 

 


それは今から、11年以上も前の事です。






占い師の所には、老若男女様々な方が相談にみえますが、

そんな中でも、70歳になるという女性の相談はかなり異例と言えましょう。



彼女は、私に「お時間はありますか?」と聞くと、

自分の生い立ちから話始めました。


 


彼女が二十歳の時、新橋に住むお金持ちの男性と結婚したといいます。



 

ご主人の父親は、当時闇市をやっていたそうで、

戦後のその頃、裕福な人は大抵何か闇で商売をしていた人か、

政府や進駐軍と繋がりがあった人だったと彼女はいいます。



 

そんな裕福な家に嫁いだ彼女でしたが、

結婚して5年経っても、待望の子供が出来ません。

義父は、遠まわしに、まだかまだかの催促。






そんなある日、

夫が2歳の可愛い女の子を、連れて来たのです。




そして、こう言ったのです。

「今日から、この子はウチの子だ。養女にしたから。」





私が夫に逆らえる訳がありません。

ましてや、義父からのプレッシャーから逃れられると思うと、

少しホッとした気持ちもあったと思います。





夫は、私に詳しい事は一切教えてくれませんでしたが、

時ある毎に、夫の若い部下などから話を聞きだし、

何となくですが、事情が分かってきました。







夫は、義父の闇市の仕事を手伝っていたのですが、

当時、闇市は東京の色々な場所にあり、

その1ヵ所が、新宿ゴールデン街にありました。

そして、夫は、その新宿ゴールデン街で知り合った女性の子供を、

養女として引き取った様でした。





「先生は、青線というのをご存じでしょうか?」と急に聞かれた。


青線? 知らないなぁ」




昔、東京には、吉原や新宿2丁目などに遊郭があり、

半ば政府の公認で売春が行なわれていたそうです。

そして、その売春地帯の事を赤線と呼んでいました。




ところが、その赤線地帯で商売が出来ない人たちは、

他の場所に簡易宿みたいな場所を営業し、そこで政府には非公認で、

売春宿を開いていたのです。



そういう政府非公認で、隠れて売春をしていた地域の事を、赤線に対して、

青線と呼ばれていたのです。


 

そして、青線があった場所の1つ、

そここそが新宿ゴールデン街でした。と彼女は言う。




多分夫は、そこで知り合った娼婦に入れ込んだのでしょう。

もしくは、私に子供が出来ないので、

子供が出来てもいいと思っていたのかもしれません。





その後、結局彼女は子供には恵まれず、

その養女を自分の娘の様にして、育てたと言う。




 

ところが、娘さんが中学生になった頃でした。

家に1通の電報が届いたといいます。

それは今でも彼女の記憶に鮮明に残っているといいます。


ヨシダキヨという人からでした。


「ヒトメムスメニアイタイ」





 

一目、娘に会いたい。」

それは、紛れも無く養女の本当の母親からだと直感したといいます。





 

帰宅した夫に、すぐにその電報を見せると、

夫は、その電報を掴みとると、

「お前はなんもセンでもいい。あの子にも言うなよ。」



そう言って、黙って行ってしまいました。






私には何も出来ませんでした。

ただ、

娘に会った時、なぜか涙が一筋流れたのを思い出します。







 

それから何ヶ月かして、

風の噂で、そのヨシダキヨさんという女性は、

誰にも看取られる事無く、独り下宿で結核で亡くなっていたそうです。





下宿が義父のものだったので、夫の部下が、始末した様です。

当時、部屋の消毒やら大変だった様で、多分間違いないと思います。







私はその時まで、

「なぜ夫に頼んで、娘を一目母親に会わせてあげなかったのかと」

ずっと後悔していましたが、


その時から、

「母親は結核だったのだから、会わせなく良かったのだと」

自分に言い聞かせる様にしました。






当時、結核は死病と言われていて、罹った人はまず助からず、

咳やタンから側にいる人にもうつるという恐ろしい病気だったんです。









 

それから、何事も起こらず、

娘はすくすくと育ち、

娘さんが大学生の時に、養女である事を話しました。





しかし、娘さんはそれを聞いても、特に動じる事はなく、

「そう。」と一言いうだけだったという。




 

その後、

一人娘だった事もあり、婿を取る形で31歳の時に結婚。

翌年には孫も生まれました。





 

私の記憶の中の忌まわしい出来事も、徐々に消え、


私は、ただ目の前の孫を可愛がるお婆ちゃんになっていました。









ところが、孫娘が中学生になったある日の事です。


娘(孫の母親)が自転車で転倒して、救急車で病院に運ばれたのです。

病院が中学校の側だった事もあり、

孫娘は先に徒歩で病院に向い、

私はタクシーを呼ぶと、すぐに病院に駆け付けました。





 

聞くと、命には別状は無いとの事で、

2階の大部屋に居るとの事でした。

そして、階段を上がり、2階に着くと、





なぜか、孫娘がポツンと廊下に立っているんです。


部屋が分からないのかとも思いましたが、

孫娘が立っているのは、まさに母親の病室の前でした。






下を向いている孫娘に、

「どうしたの? 入らないの?」と声をかけました。



 

 

 

 

 

その時でした。





 

病室に入らず廊下で待っていた孫娘が、

私に対して、恐ろしい事を言ったのである。


後半は、明日のブログに続く。