●眠れる森の美少年
この話は、私がまだマレーシアにいった当初の頃に起きた事です。
私が高校生一年の時でした。
当時マレーシアのインターナショナルスクール(国際学校)に入学しました。
日本で中学3年間英語を勉強し、英検5級を取り、
マレーシアに行った私ですが、
いざ国際学校(インターナショナルスクール)に入学すると、
さっぱり英語が聞き取れません、話せません、通じませんでした。
日本での3年間の中学校の英語教育は、通じない英語だったのです。
まさに身をもって体験した出来事でした。
では、英語が出来ない私は、その後どうしたかというと、
まず、友達を作ろうと思いました。
英語を勉強するよりも、友達を作った方が早く英語が身につくよ。と、
現地にいる駐在員の方から言われたからです。
しかし、友達を作ろうにも英語が出来ません。
さて、困りました。
最初は学校に行っても、
窓から外を眺めているだけでした。
そんな時です。
休み時間になると、
学校の中央にある小さい校庭で、バスケットをやっている人達がいました。
それを見て、
「そうだ、運動なら言葉はいらないかもしれない。」
それに、中学時代はバスケ部でした。
私はさっそくバスケ部に入部したのです。
すると、英語は話せませんでしたが、
バスケの用語や行動の意味は通じる所があり、
なんとなく、言葉は分からなくても、プレーは出来る様になりました。
やがて、バスケの言葉を交えてなら何とか会話出来る様になり、
半年位経つと、何となく通じる英語が話せる様になったのです。
友達もバスケの部員や、休み時間にバスケをするクラスメイトなど、
複数の友人が出来ました。
私はポジションで言うと、ガードでしたが、
私よりも少し背が高い、インド人の子がセンターをしていて、
彼とは、一番仲良くなりました。
彼はそんなに背は高くないのですが、とにかく手が長く器用なのです。
手も大きく、バスケのボールを掴んだまま下向きにしても落ちませんでした。
彼の家に遊びに行った事があるのですが、
普通は、インタナショナルスクールは、現地の方は行きません。
マレー人は、マレー学校へ行き、華僑の方は、中華学校へ、
インド人の方は、インド学校へ行きます。
彼の家は、お金持ちという訳ではなさそうでした。
普通の家庭で、普通の家。それも大家族。
7人兄弟の中で、インターナショナルスクールに行かせてもらっているのは、
彼だけで、それだけ家族の中の期待を一身に集めていたのかもしれません。
確かに彼はスポーツだけでなく、ハンサムで、頭もよく、
よくゲームをしては負かされていました。
そんなある日、彼に異変が起きたのです。
皆さんは、眠れる森の美女症候群という病気をご存知でしょうか。
これは滅多に無い奇病の1つで、
クライン・レビン症候群といい、
一度眠りにつくと、長い間ずっと眠り続けてしまう病気なのです。
私は病気の事は余り良く知りませんが、
確かに前兆らしきものがあったかと言われれば、後から思えばありました。
学校居る時やクラブ活動中にも、彼は眠そうな時が頻繁に起こり、
早退する事が多くなっていたので、おかしいなとは思っていたのです。
やがて、彼は学校に来なくなったのです。
私がお見舞いに行くと、彼は寝ていました。
お母さんは、ヒンズー語しか話せないので、お兄さんに話を聞くと、
彼はもう眠りについてから、18時間経っているとの事でした。
そして、次いつ起きるのか分からないと・・・・
私は30分程彼の部屋で待ちましたが、彼が目を覚ます事はありませんでした。
まだ中学生のハンサムな友人が眠りについている様は、
まさに、眠れる森の美少年でした。
この病気は、私が知った当時はまだ、
男性だけがなる病気であるとされていましたので、
眠れる森の美女症候群という名前が付いたのは、ずっと後になって、
イギリスの少女(18歳)がこの病気になり、
約6ヵ月眠り続けたというニュースが出てからです。
女の子、それも18歳の白人の少女がこの病気になったのです。
眠れる森の美女症候群と病名が変わるのに、
世界は、そんなに時間はかかりませんでした。
彼がクライン・レビン症候群になって学校を休んでいるというのは、
当時、校長先生とバスケ部の先生と、私を含めた2人の部員だけでした。
彼からの伝言で、他の人には絶対言わないで欲しいと口止めされていたのです。
やがて、彼は静かに独り学校を辞めていくのですが、
最後に一度だけ彼が調子が良い時に、学校に手続きに来たのですが、
その時、私にだけ色々な事を話してくれました。
学校を辞めたくなかった。とか、将来が不安という事でしたが、
その話の中で、
1つ気になる事があったのです。
後半は、明日のブログに続く。