●ある小学生の将来の夢
このお話は、昨日のブログ(●気持ちが悪くなるCD)の続きです。
従って、昨日のブログ(http://ameblo.jp/hirosu/entry-12142456294.html)
を先にお読みください。
そしてから下をお読み下さい。
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[前回までのあらすじ]
彼女が学生時代だった頃、とても音楽が好きで、部屋には沢山のCDがあり、
外出する時も、音楽を聞きながらという生活だったという。
沢山の音楽の中でも、彼女の最もお気に入りは、X Japanだったという。
当時東京に住んでいた彼女は、コンサートがあれば、なるべく行ったという。
部屋にはポスターを貼り、聴く音楽も、X Japanの物が多かったという。
そんなある日、そのX Japanにある事件が起きたという。
メンバーの1人が亡くなったのである。勿論彼女は悲しんだだけでなく、
築地本願寺に駆け付けて、献花したという。ところが、この頃からだという。
彼女がX Japanの音楽を聞くと、気持ちが悪くなるのだという。
この気持ち悪くなるという現象は、彼女が高校に行っている間ずっと続いたという。
その現象が無くなったのは、
彼女が実家を離れて、千葉の大学に通い始めてからだという。
普通はこれで一件落着なのだが、そうはならなかった。
それは、大学に行っている間はよかったのだが、
正月や夏休みに、実家に帰ると、また気持ちが悪くなるというのである。
それは、X Japanの音楽を聞いていなくても、
X JapanのCDを見ているだけで気持ちが悪くなる事もあるというのだ。
そんな彼女も、実家から千葉に帰って来ると、不思議に治っているという。
実は、最近彼女は新生X JapanのCDを買ったというのだが、
それを聞いても、気持ち悪くなる事は無いのだという。
つまり、CDを聴いて気持ち悪くなってしまうのは、
実家にあるX JapanのCDを聴いた時だけで、
そのCDには、亡くなったメンバーも参加している時のものだというのだ。
気持ちが悪くなる現象が始まったのも、そのメンバーが亡くなった頃だし、
彼女もその亡くなったメンバーが好きだったそうで、
それも関係しているのでしょうか。と彼女は言う。
そんな事もあり、最近は実家へも帰りづらいという。
この時はまだ、この現象の裏に、呪いがあるとは分からなかった。
まず、彼女が言う、
「もう亡くなった人が演奏している音楽を聞くと、
気分が悪くなるという事ってありますか?」という質問だが、
それは無いと言えよう。
もしそうなら、昔のクラッシック音楽や
亡くなった人が歌っている歌を聞くと、どれを聞いても気分が悪くなってしまう。
そんな事は無い。
では何故、彼女はCDを聞いて気持ち悪くなったのだろうか。
それも実家にあるCDに対してだけに・・・
そして、X JapanのCDだけに起きるという。
ただ、私はCDから流れる音楽には関係が無い様な気がした。
と言うのは、彼女が、
「X Japanの音楽を聞いていなくても、
X JapanのCDを見ているだけで気持ちが悪くなる事もある」
という事を言ったからである。
つまり、音楽を聞いていない時でも、気持ちが悪くなるという時があるのだ。
ただ、X JapanのCDには関係がありそうである。
こういう時、私が一番気になるのは、
彼女はX Japanのファンで、
今まで沢山のX JapanのCDを買い、聞いて来たのに、
ある時期を境にして、それらのCDを聞くと気持ちが悪くなるという点である。
そのある時期こそ、謎を解くカギな場合が多いのだ。
彼女の場合で言えば、
気持ちが悪くなる現象が始まったのは、メンバーが亡くなった頃だという。
つまり、hideさんが亡くなった時期だというのだ。
そこで、彼女にその時期に買ったCDはないか聞いてみた。
すると、1つだけその時期に買ったアルバムがあるという。
しかし、聞くとそのアルバムはCDショップで新品で買い求めた物だという。
新品で大量生産品の物に、気持ち悪くさせる物があるとは思えない。
何か他に原因があるはずである。
そこで、彼女の実家の部屋の写真を何枚か見せてもらった。
6帖位の部屋にベッドと勉強机、
壁にはX Japanのポスター類が貼られ、
本棚の一角がX Japan関係の物で占められていた。
CDにDVD。写真集にメンバーの人形、マグカップとサイン色紙がある。
さてと、色々X Japanのグッズが有る様だが、
私が気になるのは、ただ1点だけである。
それは、数あるX Japanのグッズの中で、
気持ちが悪くなる現象が始まった頃に入手した物は、どれですか?という事。
すると、彼女はしばらく考えてから、
その頃入手したのは、DVDとサイン色紙だと言う。
ただし、DVDは先のCD同様、新品で買った物だというので、
残るはサイン色紙だ。
それは、1つのサイン色紙に5人のサインが書かれている物で、
価値が分からない私が見ても、貴重そうに見える物である。
「そのX Japanのサイン色紙は、貴方が直に貰ったものですか?」
すると彼女は、友達から貰ったのだという。
「友達からタダで貰ったの? それとも買ったの?」
やがて、彼女は正直に話してくれた。
それは、彼女が高校時代の時、少しヤンキーしてた頃、
同級生が持っていた、そのX Japanの色紙を、カツアゲして奪ったという。
きっと、奪われた子にとって、その色紙は宝物だったに違いない。
多分、奪われた色紙には怨みの念が入っているのだろう。
ただし、そんなに強いものでは無いのだろう。
この色紙が近くに無ければ問題は無さそうである。
従って、元の持ち主に郵送して返すのが一番良いが、
もし住所などがもう分からないという場合は、
塩を入れたビニール袋に入れて、1日太陽に当て、お線香の煙にさらしてから、
オークションなどで売ってしまうか、誰かにあげるか、捨てるかである。
そこまでやったら、そのまま持っているという選択もあるが、
その色紙を見た時、カツアゲした事も思い出してしまう様なら、
また怨みの念とその思い出がシンクロしてしまい復活しないとは言えないので、
やはり、手元に無い方がいいだろう。
物に入る念は、持ち主がどのくらいその物に執着があったかで決まる。
例えば、サイン色紙も同じ物を2枚も持っていて、その1枚がカツアゲされても、
この様な念は籠らないだろう。
今回の例は、奪われた物を中間地点とした、一種の呪いと言ってもいい。
最後に、
今も語り継がれている、
亡くなったX Japanのメンバー、
hideさんの実話を紹介して終わりに致しましょう。
子供の頃、hideは辛い日々を送っていた。
肥満児だった彼は、毎日の様に「デブ!!」と言われ、
横須賀での小学生時代、デブの子供だけ昼休みに校庭に呼び出されて、
みんなの前でランニングをさせられて、笑われたという。
そんな事もあり、彼は自分の殻に閉じこもってしまい、
引きこもりがちな性格になったという。
普通なら、そんな時、周りを憎んだりするものだが、彼は違った。
むしろその逆で、
「弱い者は助けてあげなければいけない。」
という優しい気持ちが、この頃から芽生えていた。
中学2年生の時、友人に聞かせてもらったKISSのアルバムに衝撃を受け、
一瞬でロックンロールにのめり込んでいった。
彼は書店を回ってKISSが載っている本を買いあさり、
KISSのファンクラブにも入会した。
彼は入会金を払った翌日からファンクラブ会報が来るのを楽しみに、
日が暮れるまで寒い中、自宅のポストの前に立って、
郵便屋さんを待ち続けたという。
その後、彼が常にファンの気持ちを考え、ファンの立場に立って行動したのは、
彼のこんな体験があったからだと言われている。(SHOXX2000年)
それだけに、KISSのファンクラブが解散した時には、マジに泣いたという。
そんな彼は後のこんな事を言ったという。
「俺は、世の中で一番ファンの気持ちが分かるミュージシャンになるよ。」
中学3年の時、テニス部だった彼は、ある日こんな事を思った。
「テニスラケットって、よく見るとギターに似ているよなぁ。」
鏡の前で、テニスラケットをギターに見立てて弾くポーズとってばかりいたという。
すると、そんな彼のギターへの熱意を見たお祖母ちゃんが、
ギターをプレゼントしてくれたのだ。
それも、当時横須賀の駅前で美容室を経営していたお祖母ちゃんだったので、
世界的な名器と言われる、ギブソンの最高級ギターを買ってくれたのだ。
彼は高校でバンドを組もうと夢を膨らませて練習に励んだ。
そしてルックスも大事だと思い、彼は必死に運動などをして、
高校生の時には20kgのダイエットにも成功した。
そして、段々と社交的になっていったという。
でも不運にも彼が入学した高校は、エレキ禁止という厳格な学校だったのだ。
しかし、この事が逆に彼の運命を決定づけた。
彼は学校以外で、音楽の活動の場を探し始めるしかなかった。
そして高校二年の時、どぶ板ストリートのライブハウスで知り合った仲間中心に、
サーベルタイガーという本格的なバンドを結成したのである。
その後、ライヴハウスを中心に活動していたが、オリジナルをやる様になると、
東京のライヴハウスにも出る様になり、段々と名の知れるバンドになっていった。
しかし、度重なるメンバーの離脱や入れ替わりなどに疲れたhideは、
1986年の暮れ、横須賀サーベルタイガーを解散させる。
その直後、hideに才能を感じたYOSHIKIに誘われ、Xに加入する事を決意した。
その後のXの活躍は、皆さんのご存じの通りです。
hideがX Japanで活躍していた1995年の年末。
和歌山県の中学3年生の貴志真由子さんは、
成功率30%以下という危険な手術を目前にしていた。
彼女の病気は、先天性代謝異常の難病の
「GM1ガングリオシドーシス・タイプ3」といって、
世界でも真由子さんを入れて23例しか報告されていない難病だった。
彼女がまだ15歳の時、
「もう来年はないだろう。」と医者から見放されていた。
そんな彼女の辛い闘病生活を支えていたのが、X JAPANの曲でした。
特にギタリストのhideが大好きで、
それが真由子さんのたった1つの楽しみだったといいます。
やがて、障害が進み、手足も不自由になり、
段々と言葉さえもうまく発せられない様に・・・
そんな段々と弱って行く娘を見ていて、
母親の和子さんは、居たたまれない気持ちだったといいます。
そんな時、メイクアウィッシュという支援団体の存在を知ります。
この団体は、
「難病に苦しむ子供達の夢を叶えたい」という思いから生まれた支援団体でした。
母・和子さんは、さっそくこの支援団体に電話しました。
「私の娘が、hideさんの大ファンで、
たった一度だけでいいんです。一瞬でいいんです。
一目でいいから、
死ぬ前に、娘をhideに会わせてあげる事は出来ないでしょうか。」
支援団体は、お母さんの願いを汲み、
さっそくhideの事務所に電話して、会えるかどうか打診しました。
しかし、残念ながら、
電話をうけた事務所のスタッフの対応はつれないものだった。
「はあぁ~?
病気の娘さんを、hideに会わせたいって!?
この忙しい中、無理無理、
そんな時間とれませんよ。
じゃ、そういう事で、お大事に!!」
無情にも、電話は一方的に切られたという。 (takuyaさんのブログより)
ところが、ここで最初の奇跡が起きる。
普段は、滅多に事務所に居ないhideが、
この日に限って、事務所に居たのである。
しかも、会話の一部を耳にしていたのだ。
「何? 病気がどうしたって?」
「えっ!!
ああ・・・hideさん!
なんか・・・
世界で23例しかいない難病になった子がいるらしんですよ。
その子がhideさんの大ファンで会ってくれないかって・・・
でも、大丈夫っスよ!
ちゃんと断っときましたから!
あんまりしつこいんで、思わず怒鳴っちゃいましたよ。」
その言葉を聞くと、hideは、
スタッフの胸ぐらを掴んだまま激しい怒りに震えたという。
「お前 何様のつもりだよ。
母親がどんな気持ちで電話を掛けてきた思うんだ!」
hideは、直ぐに今電話をくれて人に連絡させ、
自分に会いたい!と望む母親の願いを快諾したのだった。
hideは1995年12月31日、
Xの東京ドームライブに少女を招待し、
そのライブの打ち上げにも招待して、みんなに少女を友達だと紹介した。
その時少女は、不自由な手で
2ヶ月かけて編んだマフラーを、hideにプレゼントした。
hideは、その黒い毛糸で作られたマフラーを貰うとすぐに首にかけ
、
その後hideはどこへ行くときも、
このマフラーを宝物の様に持ち歩いたという。
お返しとしてhideからは、愛用するギターにサインをしてプレゼントした。
年越しの打ち上げパーティーに招待した会場まで、
真由子さんと手をつないで歩いた。それがどれほど彼女を力付けただろうか。
彼女は成功率30%以下という危険な手術を受ける決心をした。
1996年3月28日。真由子さんは骨髄移植手術を受ける。
ところが、その4日後、
拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態になる。
その時、医者からは、
「あと1日、2日が限界・・・」とほぼ見放された。
容態はどんどん悪化して、生死の境をさ迷っていた。
医者によると、それは本当に危ない状態で、
あともう少し血圧が下がったら、死ぬ状況だったといいます。
血圧を上げる薬も効かず、もはや打つ手がない状態。
お母さんは、そんな真由子さんを見かねて、
最後に、hideさんの声だけでも聴かせてあげてたいと、
病室に電話してもらえないかと、hideに連絡をいれたのです。
電話を受けた時、hideの予定は満杯だった。
しかし、
hideはその全てキャンセルし、病院へ駆けつけたのです。
集中治療室の横の無菌室から、
何度も、何度も、瀕死の真由子を励まし続けていたといいます。
「どうした、真由子!?
病気を治して、またライブに来るんだろ!!
がんばれ!」
すると、ここで奇跡が起きます。
下がり続けていた血圧が、hideが来た途端に下がらなくなったのです。
その後!!真由子の病状は奇跡的に回復していき、
危篤状態を抜け出したのです。
hideは、危篤状態の真由子を2時間も声を掛け続け見守ったそうです。
のちに、真由子さんはその時の事を、こう振り返っています。
死の淵を、さ迷っている時、
hideさんの声が聞こえたんです。
そしてhideさんに励まされているんだと・・・
母親は感激して、号泣したという。
「まさか来て頂けるなんて・・・
お仕事も、あるのに・・・
申し訳ございません。
あの子の為に、本当にありがとう。」と、
すると、hideは、
深々と、頭を下げ、恐縮してしているお母さんに向かって、
「大丈夫、
仕事なんかよりマブダチの方が、ずっと大事ですから。」
そう言うと、左手に、はめていた指輪を母親に手渡して
真由子のお守りにしてください。と言い残し、静かに病室を去って行った。
その後、hideは「出来る事をするだけ」といい、骨髄バンクに登録をした。
彼はファンに対してこんな言葉を残している。
「死ぬ気でやれよ! 死なねえから。」
ところが、1998年5月2日。
日本中をショッキングなニュースが流れます。
元X JAPANのギタリストhide死亡!!と速報で報道された。(享年33歳)
警視庁は自殺と断定。
(ただし、私は泥酔による事故死だと確信していますが)
築地本願寺にファンが集まり始め、
5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、
連日全国からファンが押し寄せ、なんと5万人のファンが駆けつけたという。
そんな中、真由子さんも泣き叫び、
「私も死んで、hideさんの所に行くんだ」といい、
何度も死のうと考えたといいます。
しかし、hideが生前に真由子さんに渡した手紙に、
「何が、あっても、負けんなよ。
君は強い子だ。」と書かれていたのを思い出し、
彼の分まで、強く生きていこうと決意したという。
彼の死後、hideが愛用していたあのマフラーは、
hideの形見として、真由子ちゃんの手に戻った。
その後、真由子さんは、何度も頑張って危機を乗り越え、
hideさんと出会ってから11年後の2009年、
X JAPANにSUGIZOさんが正式加入して、
hideさんの後継者として立派にX JAPANの一員になった事を見届けて、
hideさんの元へ報告しに行く様に旅立っていった。(享年28歳)
hideさんは何故、
そんなにも貴志真由子ちゃんの事を助けようとしたのでしょうか。
今となっては、
彼に聞く事も出来ないので、本当の事は分かりません。
ただ、
彼がまだ小学生の頃、
小学校の卒業文集の、
彼の将来の夢として、こんな事を書いていたといいます。
将来の夢、
「医者になって、見放された患者さんを助けてあげたい。」
医者に見放された患者。
それはまさに、
END
