●沖縄の捨て石


 


このお話は、昨日のブログ(●イトマン)の続きです。

 

従って、昨日のブログ(http://ameblo.jp/hirosu/entry-12094171923.html

 


を先にお読みください。


そしてから下をお読み下さい。
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[前回までのあらすじ

 

 


この世の中には、本当に世にも不思議な話というものがあるものです。

東京に住んでいるある中年の女性からの相談でした。

彼女は私に相談してきた5年前にひとり息子(当時2歳)を先天性心疾患で亡くしていました。

その後、子宮頸部筋腫になり、子供が産めない体になったという事でした。

それ以来、離婚もあり、立ち直れずに今まで暮らしてきたといいます。

彼女は結婚前、保母さんをしていたくらいでしたから、

とても子供が好きで、それだけに自分の子供を失ったショックは、

他人の私には、計り知れないものがあると思います。

5年経った今でも、息子さんの衣服や玩具が捨てられないといいます。

息子さんが亡くなってから、1ヵ月程たった頃だったといいます。

その日も、彼女は泣いて寝床についたのは夜中の0時を回っていました。

すると、夢の中に、在りし日の息子さんが出て来たといいます。

夢の中の息子はとても元気で、笑顔で彼女の方を見ると、一言、

「イトマンにいるから・・・」と言って消えたといいます。

そして同じような夢が、3日続けてあったそうです。

いずれの夢も、息子さんは一言だけしか喋らなかったといいます。

「イトマンにいるから・・・」とだけ。それから彼女は、図書館に行って調べたり、

占い師の方に相談したりしたそうですが、納得いく答えは得られなかったといいます。

そして、私も例外ではなく、分からなかったのです。

それから約15年が経った時でした。私はすっかり、



そんな相談があった事さえ忘れていましたが、

ある日、彼女から短いハガキが届いたのです。

先生、覚えていらっしゃらないかと思いますが、随分前、イトマンについて相談した○○です。

あの時、イトマンの意味が分かる時があったら教えて下さい。と言われたのでご連絡しました。

もしまだ御興味があるようでしたら、お電話下さい。

短い文の下に、電話番号が書かれていました。

しばらくすると、何となくイトマンの事を聞かれた様な感じを思い出しました。

そして電話してみたのです。

やがて、滅多に驚かないという私も、驚いた、イトマンの謎が明らかになるのです。
























 

 

 

 

 

 

 


電話の先は大阪でした。



彼女は東京から大阪に引っ越していたのでした。

そして、そこには不思議な出来事があったといいます。




 

彼女には、8歳年下の妹がいたのですが、

その妹さんが結婚して、今、大阪に住んでいるそうです。





 

妹さんは去年結婚されたのですが、

もうその時には、お腹の中に子供がいたといいます。

ご主人はなかなか休みが取れない仕事をしていたので、

やっとまとまった休みが取れた時にも、短い日数で、

新婚旅行は国内で、しかも妹さんは大きなお腹をかかえての旅行となりました。





身重の体の事を考えて、暖かい所の方がいいだろうという事になり、

新婚旅行は、二泊三日の沖縄にしました。





その二日目の事です。




 

2人は、まず首里城を見学し、

その後、世界文化遺産の斎場御嶽に行き、

浜辺の茶屋で昼食をとったそうです。

そして最後に沖縄平和祈念堂に立ち寄ったそうです。





祈念堂に着くと、疲れているはずの彼女の体は、軽くなり、

急に元気になって、隣にある平和祈念公園も歩きたくなったといいます。

そして足は自然と、もっと先、もっと先と進み、

とうとう二人は、健児の塔まで来ていました。





そして3人の少年の平和の像を見ていた時だったといいます。


急に軽い陣痛が来たのです。



これは産まれるかもしれない。


2人は急いで戻ると、病院に駆け込みました。




そしてこの旅行先で子供を産んだのです。

入院中、彼女はお姉さんにも電話したそうです。




 

電話受けたお姉さんは、

直ぐに無事に出産した事を祝福しましたが、

その後、すぐに言葉を失ったといいます。





なぜなら、

妹さんが出産した地が、イトマンだったのです。



病院は糸満市のあったのでした。



なんという偶然でしょうか。



20年前に亡くなった彼女の息子さんが言った、


「イトマンにいるから・・・」というイトマンが今ここに現われたのです。




彼女は恐る恐る、妹に聞いたそうです。

「産まれたのは、女の子?それとも・・・」


すると、妹さんは、

「元気な男の子よ。お姉さん。」



 

彼女は受話器を握りながら、

自然と涙が出て来たといいます。







息子だ。


 

「イトマンにいるから・・・」というのは、

きっとこの事だったんだわ。





生まれ変わったのね。





 

彼女はそう確信したといいます。




その後、彼女は大阪に住む妹の近くに引っ越し、

時々息子さんと遊んだり食事を共にしているという。






私は彼女の話を聞いて、

私も生まれ変わりだと思いました。



しかも、生まれ変わる場所まで予言しているのは不思議としか言えません。

そして、なぜ妹さんは行く予定の無かった健児の塔まで行ったのか、

なぜ平和の像の前で予定が無いはずの陣痛が急に来たのか。

多分そこには、私の想像を超える何かが作用している気がしました。







 


最後に、健児の塔についてですが、



これは第二次世界大戦の沖縄戦で、

鉄血勤皇師範隊として、軍に動員された亡くなった少年たちの石碑だそうです。

戦争も末期になると、戦況が悪化し、兵士の不足が深刻となりました。

そこで、軍隊は少年に目をつけたのです。

それまでは17歳以上の青年が戦いに参加していましたが、




軍は兵役の年齢を引き下げて、14歳以上の中学生も、戦争にかりだそうと提案したのです。

地上戦が始まる1年半前の1943年頃から、


中学校では、ほとんど授業は行われなくなり、

生徒たちは塹壕を掘ったり、飛行場作りを手伝ったりして、

きたるアメリカ軍上陸に備えての勤労奉仕の日々を送っていました。

しかし、徴兵年齢に達していない少年なので、法的根拠が有りません。

そこで軍が考えたのが、「志願」でした。


自分から戦争をしたいと言えば、法的根拠など関係無いだろう。というのです。

志願兵の場合は親権者の承認が必要です。

一度みんな親元に返し、


軍隊に志願したいものだけ承諾書を持って帰って来なさいと令を出します。

もちろん反対する親は多かったと思われます。


また母親に「お前の様な子供が行っても何も出来ないんじゃないのかい」と言われたという。


しかし、軍は子供達に入隊すれば銃を撃たせてやるし、

お前専用の銃も渡されるぞ。と少年に興味を抱かせます。

またなかなか踏ん切りがつかない家族には、


周りからジワジワと非国民扱いというプレッシャーが攻め寄ります。


そして、どうしても承諾しない場合や、親のいない子は、

学校が親の承諾書を偽造して、軍に子供を引き渡した事もありました。

結局ほとんどの子供は、志願兵となったのでした。








こうして、十分な訓練もさせてもらえず、1780名が軍に配属されたのです。


彼らの事を健児隊、通称「鉄血勤皇師範隊」と呼びました。

上級生も下級生もなく、みんな二等兵という子供みたいな兵隊ができあがったのです。





彼らの主な役目は、伝令や通信でした。

伝令や通信と言うと、かっこは良いのですが、

要は今で言う、パシリでした。





昭和20年4月1日、アメリカ軍上陸すると、沖縄は地獄になります。

日本軍の基地は分断され、連絡を取るのも容易では無くなったのです。

道を歩くだで、アメリカ軍の機関銃に狙い撃ちされて命を落とすのです。

しかし、どうしても離れた軍に一斉攻撃の連絡を知らせる必要がある場合、


少年兵をパシリとして使ったのです。

隊長は3人の少年を呼び付けます。

そして同じ指令を書いた文書を3人に渡し、届けさせるのです。

お前らは小さいから、玉も当たりにくいだろう。適任だ。

しかし、アメリカ軍の銃弾の雨の中を、無事くぐりぬけてはずもなく、

3人とも即死する場合もあれば、なんとか1人だけ無事伝令が届いた時もあったといいます。

また電話線が切れたら、弾丸の雨の中、その線の補修にいかされ命を落としました。






やがてアメリカ軍が南下。

陸軍やひめゆり学徒隊、そして少年兵達は、

病人と共に沖縄県南部の糸満まで逃げます。





逃げた先にあった洞窟や塹壕には、すでに多くの住人が逃げ込んでいました。

そこで隊長が、少年兵を呼び付けます。

お前ら、壕に行って、住民を追い出してこい!




少年兵達は、泣く泣く壕に行き、

そこに居た、命からがら逃げ来た住民たちに、出て行く様にお願いしたといいます。


ある子は、住民に怖い上官が来るから逃げなとさとし、

ある子は、泣きながらお願いしたという。




生き残った少年兵は言う。


今でも、住民に対しては本当にすまない事をしたと、夢でうなされます。

どうか、どうか許して下さい。







やがて、アメリカ軍がすぐそこまで来るようになり、

戦車の音が聞こえる様になると、

軍は少年兵に新たな任務を命じた。

タコツボ攻撃である。



戦車が来そうな所に、穴を掘り、

その穴の上を戦車が来るまで、タコの様に身を潜めていろというのである。



やがて戦車が、少年兵の上を通る。



そして爆弾を持った少年が、自爆するのであった。

いわば、地上の特攻隊である。


飛行機による特攻隊は、死ぬ前に杯を交わしたり、親に遺書を書いたり、

一時帰郷して別れを交わしたものもいるが、

少年兵たちは、ただ穴の中でひとり、お母さんに別れを言ったという。

「かあちゃ~ん。」






 

戦車を破壊する爆薬も無くなると、

更に軍と共に少年兵達は南下し、洞窟に籠る様になる。

洞窟内での少年兵の仕事は、あらゆる雑用だった。

水汲みや食料の確保、死体の始末を任されていた。

洞窟には毎日負傷兵が持ち込まれたが、

薬品などは底をつき、手当のしようが無かった。




上官はそんな負傷兵を一目見て、

傷が浅い人から手当てをしたという。

傷が深く、苦しくて唸り声をあげる兵は、

少年兵を呼び、外にある艦砲の穴に投げ込んでくるように命じた。

まだ生きている兵隊さんを穴に投げ入れてると、兵隊さんが穴の中で、

「う~ん」「う~ん」とうなっているのが可愛そうだったという。





壕の中にはひめゆり隊もいたが、彼女達は看護婦で貴重な存在だった。

それに比べて少年兵たちは、使いやすい捨て石だったのかもしれない。

上官達は怖くて壕の外にはでなかったが、

少年兵達は、夜の号砲が鳴り止んだ少しの時間に、

食料や水の確保を命じられて、外に出させたという。



お前ら小さいから玉当たんないだろう。行け!









昼間は洞窟の外は、もはや米兵でいっぱいであった。

外に一歩出れば、機関銃の的になったという。

そこで少年兵に新たな命が下った。


斬り込み作戦である。


夜、少年兵に手榴弾を持たせ、走って敵陣に突っ込ませるのである。







やがて終戦まじかになると、

もうすぐ外には米兵が居て、夜も余り出れなくなった。

その頃になると、アメリカ軍から投降の呼びかけがする様になる。

「出てくれば、助けてあげるから。信用して出て来なさい。」


 


多くの少年兵は、出て行きたかったに違いない。

出て行って、また母ちゃんに会いたい。

そう思って、フラフラと出て行った少年兵もいた。



しかし、入り口付近で、上官に後ろから銃で撃たれて殺されたのである。


最後まで戦わないものは、非国民でその場で見せしめに処刑する。と。






洞窟は海にも面していたので、アメリカ軍のボートからも呼びかけがあったという。

「今から何分間か艦砲射撃を止めるから、泳いできてください」

先に捕虜になった人が、

「アメリカ兵は絶対殺しません。

 怪我した人には病院もあります」と叫んだ。


ああ、あの人が言っているんなら、きっと本当だ。

喜んだ少年兵が、海に飛び込み、泳いでいった。


しかし、味方の陣地から、その少年兵目がけて上官が銃を撃った。

少年たちの背中を次々に打ち抜いていったという。

アメリカ兵がボートを出して助けに来たんです。

どっちが敵で、どっちが味方ですかぁ…。





 

 

 

 

 

 


沖縄本島南部の糸満市に「ひめゆりの塔」があり、毎年多くの参拝者を集めている。

ひめゆり学徒隊320人のうち170人は戦死した彼女らの慰霊碑である。

何回も映画化され、テレビに取り上げられた場所である。





 

そこから少し離れた所に、戦死した少年兵達を友らを弔う為に作られた、

健児の塔があり多くの少年兵が祀られている。


鉄血勤皇師範隊1780名の内、890名が戦死した。(内17歳未満の戦死者は567名


ひめゆり学徒隊の平均年齢が17・18歳だったの比べ、

少年兵・鉄血勤皇師範隊の平均年齢は15歳位だったという。

健児隊 

米兵の尋問を受ける「鉄血勤皇隊」の少年兵

 

ひめゆり学徒隊よりも幼く、そして多くの犠牲者を出した鉄血勤皇師範隊だったが、





地元の人は言う、



 

平和祈念公園」や「ひめゆりの塔」にはたくさんの人が来るけどね、

ひめゆり 
(多可町立加美中学校修学旅行HPより)

この「健児の塔」に来てくれる人は、ほとんどいないのよ。

以前はお土産屋も2軒あったけど、人が来ないんで2軒とも潰れたよ。

健児の塔 


「ひめゆりの塔」は終戦後1年も経たない内に作られたが、

「健児の塔」は終戦後11年という月日が経ってようやく作られた。



これは軍が少年兵をなかば強制的に使ったという事実を、

隠したかったからではないかとも言われている。

END