●アジアのアウシュビッツ

 


このお話は、一昨日のブログ(●ルームメイトはゴルゴ13)の続きです。

 

従って、一昨日のブログ(http://ameblo.jp/hirosu/entry-12089754827.html


 


を先にお読みください。


そしてから下をお読み下さい。
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[前回までのあらすじ




これは私がアメリカに留学してしている時の話である。

当時、私は単身アメリカに留学していたので、大学の寮で生活していました。

2年目のルームメイトは、背が高くがっしりしたタイ人がルームメイトとしてやって来ました。

意外だったのは、彼は普通の学生ではなく、タイの軍人さんだというのです。

だから、タイに帰国したらお国の為に軍隊で働くのだと言っていました。

そんな彼には叔父が居て、ここシアトルで暮らしていたので、

彼を頼って、この大学に留学して来た様でした。

ある日の事、彼は普段から余り驚いたりはしないのですが、

電話で話している彼は、明らかに動揺している感じでした。

彼は私に一言いって、直ぐに叔父さんの家に飛んで行きました。

「叔父さんの娘さんが、誘拐されたみたいだ!」

彼が寮に戻って来たのは、3日後だった。

依然として娘さんは行方不明なのだが、1つだけ明るいニュースがあった。

それは、その後警察が調べた結果。娘さんの友達の証言から、

娘さんは誘拐されたのではなく、家出した事が、有力となったのだ。

普段はおとなしく良い子だった娘が、なぜ家出を・・・・

今までそんな家出などした事が無い娘が、なぜ?

娘の部屋をくまなく探したが、置手紙らしいものは出てこなかった。

娘の友人に聞いても、学校でいじめられている様子も無く、

学校が嫌だという話も出てこなかった。

ただ友人には、「逃げ出したい!」と言い残して駅に向かったという。

娘は何から逃げ出したかったのだろうか。

それから1ヵ月の月日が過ぎたが、娘さんは依然行方不明のままだった。

その頃からルームメイトのタイ人も、週末は叔父の家に泊まっていた。

そんなある時、彼は私が、占いをやっていると叔父に話したそうである。

すると、八方手をつくしても娘の行方をつかめなかった叔父さんは、

ワラをも掴みたかったのだろう。私に一度会ってみたい言ったという。

最初私は断ったが、彼に押し切られて、この週末、

彼と一緒に叔父さんの家に行く事になってしまった。私が彼の叔父さんの家を訪れた時は、

もう娘さんが行方不明となってから1ヵ月半が経とうとしていた。

はたして、人探しが不得意な私に、どれだけの事が出来るか分からないが、

意を決して叔父さんの家に入った。さっそく叔父さんと軽い挨拶を交わした後、

行方不明となっている娘さんの部屋に案内してもらった。

高校生だといういなくなった娘さんの写真を見せてもらったが、

極普通の娘さんである。髪が長く、目の大きい黒髪の女の子だった。

他にも、叔父さんに色々質問したのだが、娘さんが家出する兆候が見当たらないのである。

残された彼女の写真の中で、一番新しいものは、

行方不明になる一週間前に撮られた、17歳の誕生日の写真だった。

それ以前の写真と比べたのだが、特に変化は無い。暗い感じも受けなかった。

つまり、私が調べる限り、彼女は突然、思い立った様にいなくなったのである。

ただ、一つだけ、滞在中に気になる事があった。それは、叔父さんの家に居る時に、

地下室も見せてもらったのだが、地下に通じる階段を降りている時から、

何かゾッとするものを感じたのである。

しかし、その地下室には娘さんの物はほとんどなく、

あるのは叔父さん趣味の道具や、奥さんの父親の遺品などであった。

私の専門は、どちらかというと写真なので、一応、地下室にあった写真だけ見せてもらった。

いずれも古い写真だったので、娘さんの手がかりになる様な物は無かった。

でも、何か地下室が気になった事は確かである。

それに、叔父さんは地下室もどんどん調べて下さいという感じだったの対して、

叔父さんの奥さんは、常に迷惑そうな素振りで、

そんな他人に地下室まで見てもらいたくないという雰囲気がプンプンしていたのである。

それも何となく気になった。結局、私達は何の成果もあげられずに帰途に就いた。

私達はダウンタウンでバスを乗り継ぎ、

学生寮に戻った時は、ギリギリキャンティーンの夕食時間に間に合う時間だった。

食事をしながらも、話の話題はもっぱら娘さんの事だった。

実は彼も、私が地下室が気になっていた事を分かっていたみたいで、

「地下室で何か感じた?」と、逆に聞いてきたのである。

私が、「うん、ちょっとね。」と答えて、何か言おうとした瞬間である。

彼が、「ちょっと待って!」と言って、

「ここじゃまずいから、部屋で・・」と言ったのである。

ここじゃまずいとは、いったいどういう事だろう。

不思議に思いながらも、私達は部屋に戻った。
























 

 

 

 

 

 

 


彼は部屋に戻ると、鍵を掛け、

ベッドにどっしりと座ると、私に小声で、



「これから話す事は、他の人には口外しないで欲しい。

 これは叔父夫婦の人には言えない秘密ではあるが、

 もしこの事が娘さんの失踪に関係があるのなら、そうも言っていられない。

 だから、君に話そうと思う。」



彼はそう前置くと、ゾッとする様な叔父家族の過去を話し始めた。








 


叔父さんという人は、彼の父親の弟で、

叔父さんには何の問題も無かったのだが、

問題は叔父さんと結婚した奥さん側にあった。


 

 

奥さんはタイ人で、彼女は貧しい家庭で育ったというが、

母親亡きあと、父親の手で育てられたという。



父親には学が無く、字も読めなかった。

だから、どんな仕事でもして、娘だけは学校に通わせたという。

父親はいつも孤独だったという。

助けてくれる親戚も兄妹も無く、

まるで人から避ける様に、森の中に家を建て暮らしていたという。



その頃、彼女は一度だけ父親に、

「お祖父ちゃんやお祖母ちゃんはどこにいるの?」と聞いた事があったという。


すると、父親は、

「戦争でみんな死んでしまった。」とただ一言いったという。


父親は、いっさい過去の事を娘には語らなかった。





 

彼女が高校を卒業する頃になると、父親はうつの症状を見せる様になったという。

時々、「オレを殺しに来る。逃げなきゃ。」と独り言をいう様になった。

やがて彼女が高校を卒業して、働き始める。

ある日父親は、知り合いからパスポートを貰ったと言ってきたという。

そして、父親と彼女は、逃げる様にしてアメリカに渡った。






ルームメイトの叔父さんが、彼女とアメリカで知り合った時には、

彼女の父親は、うつ病と認知症を患っていたという。

ただ保険に入っていなかった事もあり、父親はけっして病院に行く事は無かった。

アメリカに渡った後も、父親は「オレを殺しに来る。」と度々独り言をいったという。





ある日、父親が階段から落ちて怪我をした。

それでベッドに寝かせて部屋を出ようとした時、

またうわの空で、「オレを殺しに来る。」と叫ぶので、

彼女は、「誰が殺しに来るの?」と聞いてみたという。






すると、急に父親が起き上がって、過去の事を彼女に話始めたというのだ。

それは、今まで知らなかった父親の過去だったという。




今まで一言だって話そうとしなかった父が、

なぜその時に、急に話始めたのかは分からないが、

それはとてもショッキングな内容だったという。











注意!!


ここからは、かなりショッキングな内容が含まれています。

残虐な読み物に慣れていない方、


悲惨な出来事にショックを受けやすい方は、下記より下は、


絶対に見ないで下さい。


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最初に驚いたのは、父親はタイ人ではなかった事だった。






父親はカンボジア人だった。




しかもカンボジアからタイに密入国した様だった。







ちなみに、現在でもカンボジアからタイに密入国する人は、後を絶たず、

2013年にカンボジアからタイに入国しようとした人が、

タイ軍によって、69名射殺されている。









そんなカンボジア人の父親は、タイに来る前、

クメール・ルージュの一員だった父は語ったという。





クメール・ルージュとは、かつてカンボジアに存在していたカンボジア共産党の別名である。


当時ポル・ポト率いるクメール・ルージュは、数々の残虐行為を行った。






その中でも有名なのは、



ベトナムへ侵攻し、バ・チューク村を襲った事件であろう。



平和に暮らしていたバ・チューク村の村人達を、次々に殺していったのである。

子供もお年寄りも、女性も病人も全てを殺しまくった。


幸せに暮らしていた村民3157名のうち、



生き残ったものはたった2名だったという。





ポルポトは、カンボジアを自分の自由に操れる様にする為に、

自分よりも頭の良い奴を、ことごとく殺した。




政治家は言うまでもなく、学者、先生、

そしてそれは時に、



字が書ける者、本が読める者、眼鏡をかけている者までにも及んだと言う。



つまり、メガネをかけているだけで、拷問され殺されたのである。



ポル・ポト率いるクメール・ルージュが殺したカンボジア人は、250万人と言われている。






ある時、市民を一同に集めて、こう言った。

「学校を開きたいので、教師をしていた人は名乗り出て下さい」と、

仕事が無かった女性や、男性が手をあげた。

「それでは、学校に案内いたしますので、ついてきて下さい。」



彼らは、ある高等学校に連れて行かれた。


そして、二度とそこから家に帰る事は無かった。






その高等学校こそ、後のトゥール・スレン政治犯収容所だったのである。


高校は既に、沢山の檻がある収容所に作り変えられていたのだった。




 

そして、彼女の父親は、

なんとトゥール・スレン政治犯収容所で、看守を務めていたのだというのだ。


普通、看守と言えば、


囚人が逃げない様に見張っているのが任務だったが、


この収容所では、看守が拷問も殺戮もやっていたという。





彼女の父親はまだ10代だったが、その役をやっていたという。

看守に任命されるのは、ほとんどが10代の少年少女だったのだが、

平気で囚人を殺せない看守は、上司に殺されたという。


したがって、父親も当時は言われた通り拷問して殺すしかなかったのだと言ったという。





そんな何人も殺して来た父親だが、

どうしても忘れらない1つの出来事があり、

それがいつも頭から離れないという。



 


それは当時、彼は一人の17歳の少女を好きになったという。

何回もアプローチしたが、良い返事はもらえなかった。





ある日、その少女には好きな男性がいる事を知ってしまう。





頭に来た彼は、まったくの無実のその少女を、上司に政治犯として密告したのである。


直ぐに彼女は捕えられ、トゥール・スレン政治犯収容所に収監された。




拷問収容所に収監された少女の運命は、きっと悲惨なものだったと推測される。








その後、ポル・ポト率いるクメール・ルージュは、

反撃に出たベトナム軍に追われ首都から逃げ出す事になる。






その時に、トゥール・スレン政治犯収容所での虐殺行為が世間にばれないようにと、

残った囚人を皆殺しにしただけでなく、

そこで働かせていた少年少女の看守たちをも、口封じに次々に殺した。




たまたま用事で、収容所の外にいた彼女の父親だけは助かったというのだ。





その後、父親はクメール・ルージュからも逃げ、

ベトナム軍からも逃げる生活。ただただ逃げるだけの生活だった様だ。

最後はカンボジアとタイの国境のジャングルからタイに密入国したという。





 

ルームメイトはタイの軍人だけあって、

近隣諸国の政情に詳しかった。



彼から聞く話は、なにかも初耳で、しかもショッキングな内容だった。

戦争はどこで起きても悲惨で、悲しい目に遭うのは、

いつも何の罪も無い人達なのだ。








私が叔父さんの家の地下室で感じたものは何だったのか。

それは今でも分からないが、

1つだけ彼の話を聞いていて、気になる事があった。





それは、彼女の父親がいつも気にしていたという、

自らウソの密告して殺してしまったという少女が17歳だったという事である。






父親はいつもその事を気にしていたという。

つまり、裏を返せば、

その少女の霊が、その父親の側に常に来ていたのではないか。






そして、もう1つ。

娘さんが家出したのが、彼女が17歳の誕生日を迎えた直後だったという事。

この17歳のシンクロは、偶然なのであろうか。






私はダメ元で、ルームメイトにやってみるようにとアドバイスした。

それは、昔父親がウソの密告して殺したというその少女の霊に、



お父さんの代わりに謝り、手厚く弔ってあげる事である。




電話に出た叔母さんは、すぐに納得してその娘さんの供養を始めたという。


それから1ヵ月位経った頃である。

娘さんが、デンバーから電話してきたのである。






どうして家出したのか、特に理由は無かったという。

ただ、何となく「逃げなきゃ。」という脅迫観念があったというのだ。



それが最近段々と、その気持ちが薄れ、



そうしたら急に家に帰りたくなったのだという。






これがただの偶然だったのか。

それとも亡くなった少女の霊が関係していたのか。


それは今でも分からない。



 

 

 

世界の歴史上、最も残虐と知られる収容所は、

多くのユダヤ人がガス室で殺されたアウシュヴィッツ強制収容所で、

150万人が収容され、その中で生き残ったのはわずか1%の1万5千人程だったと推測され、

悪魔の収容所と言われているが、




それに対して、



カンボジアのトゥール・スレン政治犯収容所では、

約2年半の間毎日のように多くの人が拷問され殺された。人はこの収容所の事を、

地獄の収容所と呼んだという。




 

現在、トゥール・スレン収容所は、トゥール・スレン虐殺犯罪博物館 と名を変え、

カンボジアを訪れる観光客にとって、

10本の指に入るほどの観光名所となっているが、


ポルポト政権時代、罪のない約2万人の政治家や先生や学者などの知識人が収容され、

暴力による尋問、酷い拷問を毎日受けたという場所で、

そのうち生きて、外に出られた人は、0.001%以下の

わずか8人だったという。

このアジアに、アウシュヴィッツ強制収容所をはるかに上回る死亡率の

地獄の収容所があったという事は、余り知られていない。


END
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