●母が残した未来の手紙
たった1通の手紙が、人生の支えになる事がある。
これは息子の為に、
母親が残した未来の手紙の話である。
母親の手紙は、時として不思議なものがある。
まるで、子供の未来を見てきた様な内容なものがあるのだ。
「母さんね。
貴方の未来を見て来たの。
だからね。
母さんが居なくなっても、自分の才能を信じて進むのよ。」
1986年、
ある町の産院に、母親が呼ばれた。
「貴方の赤ちゃん、
ひざから下の骨がありません。
どうしますか? 産みますか?」
先天性の障害だった。
母親は迷わず答えた。
「もちろん、産みます。」
ひざから下の両足の骨が無い。
ぶよぶよと垂れ下がる骨の無い両足。
選択は1つしか無かった。
これから息子の両足を切るという前に、
きょとんとしている息子に、母は、
「ごめんね。
一緒に、強く生きようね。」
両足を切断する前、母親は息子に1通の手紙を書いた。
「この手紙は、
大人になったら、開けなさい。いいわね。」
こうして、生後11ヶ月で、
息子の両足は切断された。
長男は足がある健常者。
そして、次男は両足の無い障害者。
しかし、母は、
そんなの関係無く、二人を平等に扱った。
学校に行く時も、毎朝、
「カールは、靴を履いて。
オスカーは、義足を着けなさい」と。
彼は子供時代を振り返って言う。
「私は、自分に障害があるとは思わずに育ちました。
他の人とは、ただ違う靴を履くだけだと思って育ったんです。」と。
彼は両足が無くても、とても運動神経が発達していたという。
運動が好きで、体を動かすものは何でもした。
水泳・テニスなど、
特にラクビーは好きだった。
しかし、
彼が15歳になった時、
突然の不幸が彼を襲う。
彼の一番の理解者であり、
彼と一緒に強く生きようと歩んで来た、最愛の母が、
薬の副作用で、突然亡くなってしまったのである。
こうして、母が残した、
大人になったら読みなさいと残した手紙は、遺書となった。
気落ちしたのか、
その後、彼はラクビーをしている最中に、
右膝に、ラクビーへの再起は不可能と思われる程の負傷をしてしまう。
「もうダメなのかな。母さん」
しかし、彼はあきらめなかった。
右膝のリハビリを始めた。
多分、ラクビーへの復帰は難しいだろう。
でも、ここであきらめたら、
産んでくれた母さんに顔向けできない。
そんな苦しいリハビリを続けていた時のことである。
ある人が言った。
「君、陸上をやってみたらどうかなぁ」
苦しいリハビリが、運命の出会いを連れて来た。
こうして、彼のあきらめない心が、
走るという能力を開花させたのだった。
その後、
彼は努力に努力を重ねて、
パラリンピックに出場し、
両足切断者クラスの100m、200m、そして400mで世界記録を樹立する。
やがて、彼はある夢を抱く。
「普通のオリンピックに出たい」
無謀な夢だという事は分かっていた。
しかし、そんな時、
母が残してくれた手紙の言葉を思い出したという。
「北京オリンピックに出たい。」
でも、そこには高い壁が待ち受けていた。
国際陸連(IAAF)が、
「義足っていうのは、いいよねぇ、
健常者の足首よりも効率的に地面を蹴ることができて、
それに、肉離れもないし、他の走者よりも疲労も少ないだろうしねぇ」
そう言って、
彼が普通のオリンピックに出る事を全面禁止にしたのだ。
彼のオリンピックへの挑戦は、簡単に絶たれたのである。
しかし、彼はあきらめなかった。
彼はスポーツ仲裁裁判所(CAS)へ提訴したのである。
その後、
生物物理学者らの
「義足が人間の足よりも優位であるという十分な証拠はない」という研究や、
「義足はスターティングブロックが使えず、
コーナーでは不安定で減速を余儀なくされる」という証言がでて、
数か月の審議の結果、
彼は、オリンピックへの出場を認められたのである。
しかし、
次なる壁が彼を絶望に突き落とした。
それは、
オリンピック参加標準記録。
障害者だからといって、オリンピック参加標準記録が甘くなるという事はない。
当時、彼の限界の記録が、46秒25 だったのだが、
この記録は、オリンピック参加標準記録には及ばなかったのである。
こうして、
北京オリンピック参加への夢は、露へと消えた。
今まで、あれだけ苦労して頑張って出した
彼の限界であるベスト記録を更新するのは、
不可能に近かった。
しかも、4年後なんて・・・・・・4年後なんて絶対無理だ。
「もうダメなのかな。母さん」
誰もが、あきらめるケースだろう。
それから長い、長い、3年半の歳月が過ぎた。
そんなオリンピックまじかのある日、
ある新聞の片隅に小さく、
よく探さないと見逃してしまう所に、
信じられないニュースが載っていた。
健常者でも出すのが難しいという記録。
それを両足の無い選手が、
45.07秒を叩き出し、
オリンピック参加標準記録を突破したというのだ。
オスカーの事だった。
彼は、ギリギリ オリンピックに間に合ったのだ。
オリンピック行のバスは、死ぬほど努力した彼を見捨てなかったのである。
こうして、とうとう、
彼は、ロンドン・オリンピックに参加する事ができたのである。
彼は天国の母さんに叫んだ。
「かあさん、とうとうやったよ。
ボク、オリンピックに出るんだよ。」
この瞬間、
障害者が初めて健常者とオリンピックで同じ土俵に立った瞬間である。
2012年ロンドン・オリンピックの1つの財産になった。
きっと、多くの障害者の光となったはずである。
種目は男子400m。
しかし、
準決勝に進むが、結果は8人中、最下位だった。
なんだ! 最下位かよ、
とバカにする人もいるかもしれない。
でも、
その場にいた誰ひとり彼をバカにして笑う者はいなかったという。
トラックの観客は、立ち上がって拍手する人が多かった。
その後のインタビューで彼は言う、
「準決勝に出る事が、私の目標でした。
とても嬉しいです。とっても。」
彼の腕には、
母が亡くなった命日の日付が書いてあった。
「今まで、私を支えて来てくれた沢山の方にお礼を言いたいです。
そして、
きっと、母さんも見てくれていると思います。」
亡き母親が、
彼の両足を切断する前に、
息子に残した、
大人になったら、開けなさいと渡された、
25年前に書かれた、亡き母の手紙。
その内容はこうだった。
「オスカー、
敗者とはね、
最後にゴールする人じゃないのよ。
初めから出場をあきらめちゃう人の事を言うの。」
最も素敵な最下位。オスカー・ピクトリウス準決勝の映像。
http://www.youtube.com/watch?v=a4MNTPXjqS0&feature=related
走る希望。オスカー・ピクトリウス
http://www.youtube.com/watch?v=Pdk7avhvVHI
END.