親子 | いぬのクシャミとチーズの鼻歌

いぬのクシャミとチーズの鼻歌

だんなさんの転勤で、徳島県であらたな暮らしをスタート。
人生ではじめての田舎暮らしですが、どこにいても「善く食べることは善く生きること」、まいにちの小さな食卓を記録していきます。

アトリエのあゆみ先生と接するなかで感じたこと。
母親にとって、第三者に有りのままの我が子を受けとめてもらえること、そして、私たち親子そのものをマルッと受けとめてもらえることがどんなに有難いか、ということ。

親子って、親と子である前に、ひとりの人とひとりの人なんだよね。肉体的精神的にも別々に存在する者同士の関わり。当たり前のことなのだけれど。ただ、それでいて、ときには、肉体的精神的な次元を超えた魂のレベルで、互いに深く重なり合って、共振しあって、反発しあう関係でもある。どこまでが自分で、どこからが自分でないのかがわからなくなるくらい、曖昧な境界線のうえで徹底的に関わりあう関係というのか。いくつになってもそんな風に関わりあう親子もあれば、だんだんと離れていく親子もあるけれど。

何を言いたいのかというと、親子のことって、子どもだけとか、親だけとか、どちらかを見ているだけではなくて、親子という、ひとつの総体的かつ血の通った存在として、見据える視線も必要なんじゃないかな、ということ。なんていうか、子どもが嬉しいときは親も嬉しいし、親が悲しいときは子どもだって悲しい。親子はお互い様の関係なんだ、きっと。

そういえば、様々な事情を抱えた子どもたちのための、安価で手料理を提供する「こども食堂」という試みがあって、とても興味深いのだけど、ほんとうは、その向こうにいるお母さんお父さんたちも何かしらの渇きを感じているのかもしれないな、と思う。そんな親も子も、なんらかのかたちで一緒に食卓を囲めるような場所があったら良いなと思う。