母から | いぬのクシャミとチーズの鼻歌

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だんなさんの転勤で、徳島県であらたな暮らしをスタート。
人生ではじめての田舎暮らしですが、どこにいても「善く食べることは善く生きること」、まいにちの小さな食卓を記録していきます。

引き続き「洋子さんの本棚」のはなし。『少女から大人になる』の章で、母と娘の関係性について、2人が語っています。

その中で、フードジャーナリスト増井和子著「パリから」が取り上げられ、そこで描かれる増井さんと娘さんの関係性が、こんな風に語られていた。

小川さん「ふたりの距離感がとてもいいですね。母親の役割しか果たしていない人がもっているベタベタした母性がこの本では封印されていて、あくまで「ものを書く人」として娘を描写している。(中略)高校生の自分が読んだとしても、ふたりの距離感とか母親の娘に対するとらえ方というのが、自分の母親とは違うな、うらやましいなと単純にないものねだりでそう思ったでしょうね」
平松さん「高校生の私がどうしてこの本にここまで惹かれたのかと言えば、パリに住んでいる同世代の女の子(※娘さん)に憧れてとかそういうことでは全くなくて、やっぱり、そういう増井さんの姿勢だと思うし、人間観だったと思います。娘なんだけど、ひとりの人間としてこの目の前の人間と相対するのだという意識がものすごくあって、娘も聡明だからそれを汲んで、母親と娘がこういう関係を築くことができるんだという、驚きと羨望がありました」

娘をひとりの人間としてとらえ、向き合っていく。それは決して生半可な覚悟では貫けないだろう。たとえば、年ごろになって心や体が変化する娘の中に「女」を発見したとき、母親はどう向き合うのか。

娘に芽生えた女性性を認めてしまった増井さんは、「始まってしまったのか、、」と天井を見上げ、恋人ができたり、何かとほんとうのことを言わなくなった娘を思いながら、「目の前で起こる子供たちの恋を、バカみたいな心配であほらしくこわすのは止めましょう。たまには恋を尊敬しましょう。愛し合っている子供というのは、どちらにしても恵まれた生き物です」と書いている。平松さんは、そんな増井さんの一編を「冷静さを装っているけど、ここだけ全編の中ですごく浮き上がっている(笑)」と指摘しつつ、絶妙に抑制のきいた文章のうしろに、親としての寂しさ、焦り、やるせなさ、いろんな葛藤をもそっと寄り添わせた増井さんの人間性に、大きな魅力を感じたのだと話す。

母と娘の関係性って、いつの時代も難しい、いろんな意味で。私自身、自分の中に整理されていない母親との問題が今もある。それは、今も忘れられなくて切っても切れない、というよりは、後ろを振り向けば石ころのように虚しく転がっているようなイメージに近い。かつてはそれらと戦ってみたり受け入れようとしたり、自分なりにもがいてみたけれど、どうにも始末に終えなくて、道端の石ころにしてしまったのです。それからは、辛いときやわかってほしいのにわかってもらえないときは、言葉にする代わりに、心の中で石ころを思いきり蹴とばすようになった。たぶん母は、気づいてないだろう。そして私も、母の石ころには気づいてないだろう。こういうのって、表面しか見えていないと、けっこうわからないものだもの。

母は、私に対して抑圧的だったりベッタリだったりとかは全くなく、母親的人格という面からすれば、ごく普通だった(わりに放任主義でドライな部分がある一方で、感情が高ぶるとヒステリックになったりはするけど、ごく普通の範疇にすっぽり入るレベル)。けれど、母娘から女性同士へと関係が変化していく過程で、時に知らなかった一面を見てひそかにゾッとしたり、時に大切なポイントを見て見ぬ振りしたり、互いにちいさなすれ違いを積み重ねてきた結果が、いまの関係性を作ってきてしまったのかなと思う。

少しずつ母から離れていく途中の踊り場に、ずいぶんたくさんの石ころを置いてきてしまったな。糸が切れた凧のようにフワフワと泳いで、母に背を向け続けようとする自分を、心もとなく思う時も、ある。