きちんと伝える | いぬのクシャミとチーズの鼻歌

いぬのクシャミとチーズの鼻歌

だんなさんの転勤で、徳島県であらたな暮らしをスタート。
人生ではじめての田舎暮らしですが、どこにいても「善く食べることは善く生きること」、まいにちの小さな食卓を記録していきます。

年末に東京に帰省したとき、どの電車も結構な混み具合だった。そうか、東京の電車って、滅多に座れないのだよなあ、と帰るたびに実感するのだが、今回はマタニティーマークをバッグにぶら下げていたため、もしかしたら譲ってもらえたりする??なんて淡い期待もあった。
しかし、席を譲ってもらえたのは、滞在した9日間のうち、たったの1回。着いた日は、重たいボストンバッグを背負いながら山の手線に乗り込んだのだが、たまたま目の前に座っていたおじさんは、気にするそぶりもなかった。

ここでふと思う。果たして、譲ってもらうのが当たり前、なのだろうか?マタニティーマークをぶら下げた女性が目の前に立ったら、必ず譲ってあげるべきなのだろうか?もちろん、こころよく譲り合うことは、善いことに違いない。みんながそれをできたら、どんなに平和な世の中だろう。

でも、現実はそんなにゆるくない。かつて同じようなシチュエーションに立たされた時、私も譲るべきか否かを迷いながら、時には「なんでわたしの前に立つのだろう」という煩わしささえ感じ、寝たふりをしてお茶を濁したことが何度もあった。実際、そんな風に振る舞う余裕がないほど、心身が疲れきっていて、罪悪感をもってしまうことにすら苛立ちを覚えたこともあった。そんな時、心の中でつぶやいた。「みんな、大変なんだよ」

みんな、大変なんだよ。

当たり前なのに、マタニティーマークを手にした途端、いつのまにか自分中心の思考になっていた。そんな自分を許してしまう免罪符としてのマタニティーマークではないはず。

じゃあどうすべき?

本当に辛い時は、「すみません、助けてください」って、きちんと伝えることなんじゃないか。それは厚かましいことでも恥ずかしいことでもないし、きちんと伝えることができたら、きっと相手は応じてくれるはず。伝える勇気をもつこと。

何も伝えずして、助けてもらいたい、察してもらいたいと他者に期待するのは、難しい。それは、見ず知らずの人でも、夫でも、友人でも、肉親でも同じことだ。

そして何より、みんな大変なんだ。みんな、いろんなものを背負って生きてるんだ。独りよがりの思い遣りよりも、そういう想像力をもってみると、混雑電車も違った風に見えるのかもしれない。そうすると、他者にも、もっと優しくなれるのかもしれない。自戒を込めて、そう思う。