大道似顔絵描きのガチンコ人生史

大道似顔絵描きのガチンコ人生史

私は半世紀近く、大道で似顔絵を描いてきました。道路交通法やヤクザにも屈せず、今、尚、続けていられるのは次の言葉からです。

生きるというのは人に何かをもらうこと
生きていくというのはそれをかえしていくこと
by 金 玉先生 以上

私の尊敬する人は坂本竜馬と大原孫三郎です。
竜馬の言葉「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様骨となって一生を終えるのだから」


”愚かなことを、大胆にやって、真(まこと)をつかむ。真(まこと)らしいことをやっていても、本当の真(まこと)はつかめない。”


   有象・無象、散る故に、咲く頃あらば表現せん。  世阿弥




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ホクロを考える
大道似顔絵描きのガチンコ人生史


実証的人相考?顔とホクロ



 「モナ・リザに眉毛がない」と言ったのはスタンダールだが、眉毛が描き加えられない事によってナゾの微笑と同様神秘的にさせているのは、眉は人間の感受性のバロメータを推し量る所だからであろう。


 たしかに眉は「愁眉を開く」とか「眉毛を逆立てて怒る」等という如く、とくに外界に対する感受力を非常に敏感に表現する。



 たとえば眉毛をピクピク動かすのは、その人間を取り巻く諸条件に敏感な性格であり、反対に眉毛を一つも動かさぬ人はあまり物事動ずる事無く、落ち着いた性格の人と思って間違いない。


 だいたい眉頭の神経は生理的、心理的に敏感で、男でここの毛が立っている時は緊張している時であり、女は生理のときは確実に眉頭の毛がピンと立つ事が実証的に証明されている。



 また女に眉と書いて(媚)と読むごとく己ずと媚態を感じさせる所であり、昔など武家の妻に眉を剃り落とさせたのは媚態を慎む意味を含んでいたのであろう。それに眉と陰毛とは発生密度が大変似ており、眉の繁り具合から己が妻の陰毛の生え具合をわからなくさせる配慮もあったものと思うのは筆者の思いすごしであろうか。



 ところで人相学では眉は「兄弟宮」とも呼ばれ、主として兄弟縁、子孫、身内等の事を判断するらしい。故に三日月眉は愛情細やかで、兄弟縁もよく「玉の輿に乗れる人。反対に短眉は次子に多く,生家の跡を継ぐことなく、自己中心的で夫は妻を剋し、妻は夫の運を損ねる等など巷の易者先生方は高言なさるのも、ここは解剖学的にいって毛は己の血液に関係あるからであろうか。
 しかし、実証的考察によれば額から流れる汗が眼に入らないように、云わば眼という「母屋」に対して「廂」の役割しか果たしていなように思えるのである。・・・・と言ってしまえば読者に不親切というものであろう。




 あえて言えば太い眉と濃い眉の持主は積極的、情熱的、個性的だと言え、これに対し細い眉は、消極的、没個性で太い眉の反対と見ていいだろう。


 ただ眉は自分で自由に剃ったり描いたり出来、街のチンピラも恐ろしさを強調するため、ここに入れ墨をいれているのを時々見かけるが、女の方でもここに手を加えない方は少ない。



問題はその描き方で、たとえば時代劇の主人公よろしく「寄らば斬るぞ」式のいわゆる「逆八字型」の尻上がり眉を描いているのは、自己主張をしている証で、とくに眉頭にいくほど眉を濃く塗る女はこの性格をいちだん強め、性的願望も強いと見てよい。



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耳よりな話


大道似顔絵描きのガチンコ人生史


 それでも巷に悩める人が多いというか、精神構造の貧弱さか、藁でも掴む思いなのか、レベルの低い占い師の前まで行列を作っている現状である。


この様に占いは「一兆円産業」と言われ、易源病と言うべき占い公害も続出しているのである。このブームを俺なりに考察するに、個人と集団の紐帯が弱まっている現代社会にあって、個人はかっての共同体運命を共有出来ず、非合理的な占いや新・宗教に逃避しているのではないかと思うのだ。これは基本的に人間が未来に歩まざる存在であると同時に、その先は死すべき弱い運命にあり、その事を自覚している人間固有の不安を直裁にあらわしているからであろう。


 ところが易者の哲理ほど、都合よく詭弁されたものはなく、いわんや手垢のついた人生論を振り回し、金をかき集める事に狂奔している。もし自分の性格、あるいは将来の指針を得るためには、やはり、己を一番よく知っている人に相談するのがベターの方法であるのであるまいか。


 だいたい占い師というのは我々の人生は全て前もって定まっているのだ、と張扇の緒と高くおっしゃる。しかし、我々は自分の人生を己で切り拓き、己の意志で歩いているはずである。つまり、占いより先に一生懸命に生きるという心がけがないといけないのに、占いをもって事足れりとする人。女や老人ならイザ知らず、それが働きざかりの若い者が深刻そうに見て貰っているのを見ると俺は泣きたくなるのだ。といって俺も同じ穴ムジナ同士なので、ここで逡巡していると「耳よりな話」が出来ないので本論に入る事にする・・・・


 「耳は何の為にある」「耳がないとメガネが鼻の下までずり落ちてしまうからだ」という小咄みたいな話があるが、とんでもない。集音機の役目の他、身体の平衡感覚(バランス)を保つ役目をしているのである。その上人相学ではなかなか興味深い所で、眼、眉、口等は自分の意向で動くが、耳だけは(特別の人を除いて)自分の意向では動かず、形も生涯変わない。


 故にこの部位では先天運、つまり自分の意志にかかわりなく、持って生まれたその人の遺伝的なもの、運命的なものを見るのに好都合な所といえる。また耳ヘンに心と書いて「恥」と読むごとく、感情の強弱等の心理的なものも読む。
 作家・五味康祐氏説によると耳は女性のシンボルで、例えば図イ(耳溝)が女性の膣にあたり、全体が細く、入り口が狭いのを最上としているのだが、氏の面白い所はそれを実証するために、遊女屋へ何度も通って八十人ほど試したと言うことである。その結果、ハッキリとした確証を掴み「昔、耳隠しという髪形は女性の一番大事な所を色男より、隠すため考案したものだ」断定し、女の深謀さに敬意を表しておられるのだ。


 この事について動物学者デズモンド・モリスも「耳は遺物どころか、性的に興奮している時充血し、極めて敏感になる。故にここにはひとつの性感帯を作り出す事と結びついているのはほとんど疑心はない」といっているごとく、耳と性器は何らかの関連があるのだろう。


 俺もニガオエで女性を描いていて、耳がとても気になるのだ。この溝が細長ければ嬉しく、いくら美人でも溝がなかったり、太かったりするともうガックリだ。


 史実でも古代のペルシャやバビロンにおいても女はそこを隠すため、女は耳飾りをし、未開人種さえ木片や貝など付けていた。現在は尚更、派手なイヤリングを付けている女の多くは耳溝を見せようとせず、耳を半ば半ば以上隠しているのは、総じて形が悪いか、溝が浅いか疑って見る必要がある。
 読者諸氏よ。これに幻惑する乞食エカキを笑えば笑えだ。


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 耳よりな話


大道似顔絵描きのガチンコ人生史




 過日の事だ。実姉が大坂で良く当たるという占い師に見て貰ったそうだ。その占い師は鑑定料もさる事ながら予約してから日数も非常かかるほど繁盛しているそうである。「・・・でどうだった?」と聞くと、その占い師は開口一番「あなたはご苦労の多い人生を歩んで来られましたね」と言われドキッとしたと言う。また「あなたは律気で潔癖な所とズボラな所、喜怒哀楽というふうに両極端を持っています。


しかし、結果としては中庸を歩み、人生を無事に過ごして来られたのです。ただし、今、あなたは人生の岐路に立っているでしょう?」と来たもんだ。
 これで実姉は完全に占い師の術中に陥ってしまい、己ずから喋らなくとも良い事をペラペラ喋り、占い師にヒントを与え、占い師にとってはその話の要点を纏めて常識的な判断と回答をすれば良いわけである。



 やはり昔、俺が新宿でニガオエを描いていた頃だ。ジプシー新宿と名乗る男と知り合いになり、一度、彼の部屋を訪ねた事があるが、六畳の高天ケ原に修験者の様な面持つでドロドロの紋付袴で大あぐらをかいているのである。で俺が「ジプシー占いに紋付羽織りじゃお可笑しいじゃないか」と問いただすと「郷に入れば、郷にしたがえさ」とすましたものだ。それよりこの部屋には弁天様の後に受信機がしつらえてあって、その線の先は管理人の部屋に繋がっており、鑑定の依頼者はここで生年月日、名前、そして相談の内容を話すのだが全て聞こえているのである。


それを鑑定依頼者に素知らぬ顔で「壬寅の二黒土星、子供の結婚について悩んでいるのでしょう。」とポツリと言えば依頼者はただただビックリ。後は実姉と同じ様に占い師が弁舌巧みに相手を自分のベースに持ち込み、悩みを聞いて適度な詭弁を弄すれば良い訳である。この手は今、流行の新・宗教も使う手だが、社会学者・フレーザーはこうした現象を「暗示的であって明示的でなく」「科学的観念を欠如した」「非人格的な自然運行の調節」であるとして、共感呪術と名付けている。


 だいたい占いというのは人相学は別として(自己撞着気味だが)古代人の盲信なのだ。面白い事に和泉宗章という男は競馬で一獲千金を得るため、算命学に入門し、競馬では失敗したが天中殺ブームを興すのだ。だが巨人軍・長嶋監督辞任の予告が外れた事を機に易者を廃業、一転「占い告発」に意欲を燃やしている事である。こんなバカげた事は占いに素人の乞食エカキでもわかる事なのだ。例えば四柱推命、紫微一斗数、奇門遁甲、算命学等は生年月日、時間を万年暦によって占うのであるが、これには一年の始まりを一月一日ではなく、二月立春を最初としている事だ。況や現在大陰歴(旧暦)を太陽歴(新暦)にしているので無理がある。姓名判断もだ。くさかんむりの「廾」はもともと「竹」だから三画はおかしく六画、なかには四画で見る人もおり、占い師の捉え方によって著しく違う事になる。


 易占い、これは一番ポピュラーなもので、五十本の筮竹を引き抜いて占うものだが非常に抽象的、観念論的である。まして二度引いても三度引いても違う答えが出、まさに当たるも八卦、当たらぬも八卦というのは、この占いの代名詞のように言われている。



 又、あの有名な「高嶋易」だ。この元祖・高嶋嘉エ門は号を呑象といい、木材で大成功。その上、明治天皇の御下問に応じて易を立てたというほど偉い人であったが、血縁、弟子に「高嶋姓」を名乗らせた者は一人もない。したがって現在、「高島」を名乗る易者は易聖・高嶋呑象と何等関係なく、すべて高島と言って島の横に山がないはずである。


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眼の表情


大道似顔絵描きのガチンコ人生史



ところでだ。眼を大きく見せるためか、現代の化粧法は上マブタ(田宅)と下マブタ(涙堂)に色付けるようだが、このアイ・シャドーの起源はローマ時代の娼婦だからそうで、彼女達は如何に自分達が精力絶倫か、しかもこれほど自分達の身を疲れさせてまで、男にサービスしているかを誇示するために眼の周りにに青黒い色素を彩ることを思いついて、それが現代まで継承されているという訳である。


 故にここがセックス過度になると、黒ずんでくるのは人相学以前の常識だが、これについて観相学の権威・八木喜三郎氏は女で田宅が広く、眉が非常に細い人は年中浮気をする相。また眉を落とすと田宅が広く腫れぼったく見え、魅力的な感じが出るので、昔から遊女達は剃っていたとおっしゃるのだ。
 涙堂もセックスと関係あるところであるが、筆者はそれ以上にその人自身のエネルギーの集積場であると思っている。故にここの膨らみは目立つのは健康で非常にタフな人といえる。


 又、ここは自律神経中枢の分布している所で腎臓と密接な関係があり、ここを針でチョット突つついても尿に蛋白が降りるぐらいで、急性腎臓炎を人為的に起こそうと思えばここを突くのに限る。なんでも戦争中の話だが徴兵検査の時、ここを突いて腎臓炎の診断を受けマンマと不合格なった人がいたそうだが、学校あるいは会社のズル休みの病名に悩んでいる方はこの手を使えば簡単だが、本当の腎臓炎になっても筆者のあずかり知らぬことにする・・・


 とにかく眼の周りは精力の強弱、セックスに関係あるところで、鼻と目頭の間に青黒い色が出れば不倫しているといい、反対の目尻の方は妻妾宮(さいしょきゅう)と言って処女か人妻かはここで見る。つまり、処女の場合はこの部位を中心とした皮膚の色が綺麗に澄んでいる。それは他の部位より白く、何となく透き通っている感じで、初めて男を知った直後はここがホンノリ桜色に染まっている。故に妻妾宮に薄紅色の様な華かな色に見え、その上、その色がなんとなく収まっていない感じの人は処女で、反対に美色のような綺麗な色ではなく、ただ何となく静かで収まって色は概婚者である。つまり古女房になればなるほど、この部位が枯草色になると言う事だ。


 ただ残念の事に現代はネコも杓子も化粧しているので、余程、何かの条件で素顔を見る機会がないと判断を下ろせないことになるが・・・・しかし、待って頂きたい。処女の場合はマブタと涙堂(眼の下、ここが水脹れれの様になれば確実に妊娠している)ぐらいまでの化粧で、目尻まで化粧していないという事だ。だから若い娘なのに妻妾宮辺りにまで化粧しているのは処女でない事を疑って見る必要がある。


 故にからか世紀の大予言者ノストラダムスにこんな逸話がある。
 ある日の事、彼は町で知り合いの若い娘にあった。「やあ、お嬢さん、今日は!」と挨拶し、翌日、再び前日と同じ彼女に会って、すかさず「これは奥さん、今日は!」とズバリ言ってのけたという。くだんのお嬢さんは一夜のうちに「女」になった事を看破され、おそらく顔を赤らめたのであろうが、ではどうしてノストダムスはものの見事に見破る事が出来たのか。無論、彼女の顔付き、眼の動かし方、例の妻妾宮のツヤといった点までサッと眼に入れ、グッと睨んだからに違いないが、これは大予言者だから出来た事で、我々凡人にはなかなか難しい事であろう。


そこで簡単に解かる方法を紹介しょう。それはローマ時代の哲人・デモクラテスに言わせると「首の細いのが処女の証拠」として、処女でなくなると首の周りが太くなり、首にスカーフを急に巻き出したのは怪しいと言うのである。ローマの詩人・カトラスに到っては「処女を失うと胸が膨らむ」と言うのだ。これは昔ローマでは結婚の夜とその翌朝に、女の首の太さを糸で測って彼女が処女であったかどうか確かめる風習があったからである。


 考察すれば首の前面と喉頭の両側には甲状腺という内分泌線があり、それは男子の睾丸、女子の卵巣と深い関係があって女性が性交すると甲状腺が充実して太くなるので、初夜と翌朝では首の太さが異なるからである。故に首が細い事は未熟幼稚を意味し、首が太る事から身体全体の発育を意味しているからカトラス説も信用出来ない事もない。


 他にドイツの医学者W・ウイッツエルの提唱する処女を失った時は黒目の部分が充血しているという説だ。処女、人妻問わずセックスした直後十二時間ぐらいは眼球の内側(目頭の方)が幾らか赤味が広がる。
 更に奇抜なところでは井原西鶴の浮世草子に依れば、灰を平にならした火鉢の上に女を跨らせ、クシャミをさせる方法だが、あまりにバカバカしいので俺はテントの中で自己冷笑することにするが、いずれにしろ処女崇拝は万国共通の念願であるのであろう・・・・・

   27 耳よりな話


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眼の科学③ 



大道似顔絵描きのガチンコ人生史
 


乞食エカキをして数十年の俺でさえ、人の顔を描くさい、果たしてこれほど多彩に表現してきたかどうか不安になるのだ。哲学者ベルグソンは「心とは意識の流れである」と言ったが、その彼も「意識の流れを最も端的に表現しているのは眼である」とまで言わなかった所を見ると、眼ー心ー性格の関係はなかなか難しいのだ。


 例えば「本町三丁目糸屋の娘、姉は十六、妹は十四。諸国大名は弓矢で殺すが糸屋の娘は眼で殺す」等である。この糸屋の娘の眼がどの様なものであったかは、およその見当がつくが、だが人間の眼も猫同様に変わるだけに「あれが糸屋の娘的な眼だぁ」とその瞬間を捉えて指摘し表現することは、至難の技と言わざるを得ない。しかし、そんな事を言っていると人相学の話にならないので敢えて当たっていると思うのだけ紹介しょう。


* 鋭く光る眼・・・筋骨質の人に多く、いくら失敗しても立ち直る精神力を内臓している。とくに普段は優しい眼をしている人で、ときどき鋭く光る眼になるのは、過去において修羅場をくぐり抜けてきた人であろう。


* 浮光のある眼・・・桃花眼(とうかがん)といって眼の眼の周囲が紅をさしたように色づき、眼はガラス玉に水をかけた様な感じで、女は非常に色っぽく感じる。これは性的に興奮した時に出る状態で何時もこうした眼をしているのは欲求不満のいちじるしい証拠である。


* 白眼の青味と血走り・・・白眼が青味がかっている女はヒステリー傾向気味。白眼が血走ってくるのは睡眠不足や血圧異常を除くと興奮状態にある事を示す。


* 一点を見据える人・・・自己以外に関心なく非常に利己的だが、一種の強い性格で人間的に油断できない。ただこれに顔の表情もなく、硬直した様に見えるのは精神分裂症の傾向あり。

]

* 常にまばたきをする人・・・眼球が濁っていれば落ち着きなく、物事に対して粘りのない臆病な人。眼球の澄んでいるのは才子肌で人の心をよく見抜く。


* 眼を伏せて話す人・・・話をする時に相手の顔を直視せず、うつ向いたり、眼を伏せて話す人がある。この人は小心で羞恥心から伏目がちになる者もあるが、多くは秘密を持つか、二心があるか、他に策略を考えている傾向があると思って間違いない。


* 眼に微笑をたたえながら接する人・・・この場合は誠心誠意を持って相手を受け入れる場合と、内心軽蔑やからかって接している場合がある。したがって同じ眼の笑いもこの二種類がある事を注意して見る必要あり。


 以上だが、それにして筆者が感じる事は、今の若い女性が誰もか驚いた様な眼をしているのは何故であろうか。
 それは古人の言った「男は目に糸を引け、女は眼に鈴を張れ」という様な眼とはほど遠く、力なく大きな眼は幼児性と娼婦性を表現しているのすぎないように見える。


 ただ良く言えば大きな眼は昭和初期の挿絵画家・蕗谷虹児や中原淳一に依って確固としたイメージに定着した時、それが西洋的な感触と結びついて印象ずけられたのも事実であり、それは竹下夢二の肺病病みのような無気力なナヨナヨした古い日本的美人からの決別の意味を持っていたのだろう。


つまり、大きな眼は自我を抑えている古い日本の女性から、もっと積極的に何かを主張しょうとして、まず大きく眼を見開いて何かを主張しょうとして、まず大きく眼を見開いて何かを見ようとしている姿といえる。


その主張を行動に移すだけの手足の強さはまだないが、男からただ見られて恥ずかしそうにうなだれているのではなく、やはりやや俯いてはいるけれども、上目使いにパッチリ目を開けて男を見返そうとする姿勢はそこに或る。その眼が次ぎにどういう行動に結びつくか、興味あるある態度で見守りたい。


                                                                            次は眼の清濁、眼光、視線の動き方だが「眼でモノを言う」「眼に角を立てる」「眼の色を変える」「眼を皿にする」「眼を配る」等、何と眼の持つ表現力の多い事だろうか。




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眼の科学



大道似顔絵描きのガチンコ人生史

                                                                              中国の人相書では眼の形を狐眼、象眼、虎眼等動物の目の形より四十種類以上に別けているが、真実性に欠けるので省略する。何故なら眼は我々が普段、考えている様に固定的ではないからである。眼は一定の通念でなかば抽象的なものに観念の中で動物の記号として固定するには、あまりにも眼は流動的なものの中に溶けてしまうからだ。そこであえて大きい眼(軽眼)と小さい眼(重眼)程度に止め、眼の清濁、眼光、視線の動き方の方に重点をおく事にする。


 だいたい大きい眼の人は感受性に富み、好奇心旺盛で、それで何事も開放的で親しみやすい打ち解けた人物。とくに女でこれに眉間広ければハントにもってこいで、人相学でも広ければ広いほど娼婦性が高まると言う。
 小さい眼は何事にも貴重面で行動より思索的、視野狭いわりに集中力あって添削力に富む。男は意志強く、粘りがあって地味で何事もコツコツ築きあげる。女は貞操観念固く、忍耐あり容易に立場を変えない・・・・


 こんな事ばかり羅列していると諸氏は「もう、よい」「もう、よい、わかった」と顰蹙をかうが、あらゆる人相本と言われるのがザッとこんな調子なのである。零点何ミリかの眼の差が何程かあらんやであり、書いている筆者でさえウンザリするし、かかる大胆な結論を出すほどの勇気がない。


 ただ大きい眼は開放的、小さい眼は視野狭いといったが、たしかに海辺に住む人は大きい眼で露眼が多く、山に住む人は小さい眼で金壷眼が多い。これは海を長く見つめていると視野広くなり、奥山に住んでいるとどうしても閉鎖的になるという環境から、自然に叶う法則であろう。


尚、眼の大小は気候とも関係あって北陸や東北では眼の大きい人は少なく、九州、瀬戸内海沿いでは大体眼の大きい人が多いようである。この事は民俗学者リミー氏も目の幅(眼裂幅)はフィジー諸島などのカルムーク人は大きく(34、8)北ヨーロッパ人は小さい(27、5)というのも頷けるのだ。






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