一三 夜話に云く、祖席に禅話をこゝろへる故実は、我が本より知り思ふ心、次第次第に知識の詞ばに随ひて改めもて行《ゆく》なり。仮令仏と云は、我が本より知たりつるやうは、相好光明具足し説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知たりとも、知識若し仏と云は蝦蟆蚯蚓ぞと云はゞ、蝦蟆蚯蚓を是ぞ仏と信じて日比《ひごろ》の知解《ちげ》を捨つべきなり。此の蚯蚓の上に仏の相好光明、種種の仏の所具の徳を求むるも猶|情見《じやうけん》あらたまらざるなり。只当時の見ゆる処を仏と知なり。若し此の如く詞に随て情見本執をあらためもて行かば自ら契《かな》ふ処ろあるべきなり。然あるに近代の学者、自らの情見を執し己見《こけん》を本として仏とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差《たが》へば、さはあるまじいなんどゝ云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方仏道の精進なきなり。亦身を惜まずして百尺の竿頭に上りて、手足を放て一歩を進めよと云ふ時は、命ちありてこそ仏道も学すべけれと云て、真実に知識に随順せざるなり。能能思量すべきなり。