一七 雑話の次でに云く、世間の男女老少、多く交会婬色等の事を談ず。是を以《もって》心を慰むるとし興言《きょうげん》とすることあり。一旦意をも遊戯し徒然も慰むるに似たりと云ふとも、僧はもつとも禁断すべきことなり。俗猶よき人、まことしき人の、礼儀をも存じげにげにしき談の時、出来《いできた》らざることなり。只乱酔放逸なる時の談なり。況や僧は専ら仏道を思ふべし。雑語《ざふご》は希有《けう》異体《いてい》の乱僧の云ふことなり。宋土の寺院なんどには都《すべ》て雑談《ざふたん》をせざれば、其やうなることをも云はざるなり。吾が国も近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも此の如きの言語出来らず。滅後にも在世の時の門弟子等少々残りとゞまりたりし時は、一切に云はざりき。近ごろ此の七八年より以来、今ま出《で》の若き人たち時々談ずるなり。存外の次第なり。聖教の中にも、麁強悪業《そがうのあくごふ》令人覚悟|無利言説《むりごんぜつ》能障正道とありて、只うち出して云処の言《こと》ばすら、無利の言説は障道の因縁なり。況やかくの如きの言語はことばに引れて即ち心も起りつべし。最も用心すべきなり。故《こと》さらにかくなん云はじとせずとも、悪きことゝ知りなば漸々に対治すべきなり。
