The Beatles Lover No.5  ザ・ビートルズ・ラバー・ナンバー・ファイブ

人気ラジオ番組が、読んで楽しめるテキスト版になりました。

 

★★

 

ディープなファン目線、そしてサウンドメーカー目線でビートルズへの愛💖と共に楽曲を紹介していくThe Beatles Lover No.5。

 

杉田裕(JAYWALK)とサミー小川(メディアプロデューサー)がナビゲートします。

 

279回【2022年7月30日~8月5日】の放送は「パスト・マスターズVol.1」を紹介します。

 

今週はゲストに大村亨さんをお迎えしています。

 

 

【サミー】夏ですねー。JAYWALKの大ヒット曲といえば「何も言えなくて・・・夏」ですけれど、夏のバンドというイメージはありませんよね?

【裕】この曲は、もともとはクリスマスの曲だったんです。でも、クリスマスの曲はその時期にしか流されないので、何とかしようと。それで「夏」とこじつけて・・・(笑)。

【サミー】今日のゲストは、ビートルズ愛の熱量がすごい、あつーい本を出版された大村亨さんをお迎えしています。

【大村】はじめまして。よろしくお願いします。

【サミー】大村さんはビートルズの活動期、来日時の日本の状況、メディアでの取り上げられ方などを調査・研究されている方で、これまで4冊の本を出版されています。 

 

①「ビートルズと日本」熱狂の記録 ~新聞、テレビ、週刊誌、ラジオが 伝えた「ビートルズ現象」のすべて (2016年)

②「ビートルズと日本」ブラウン管の記録~出演から関連番組まで、日本 のテレビが伝えたビートルズのすべて (2017年)

③「ビートルズと日本」週刊誌の記録 来日編~週刊誌にしか書けなかっ た白熱のビートルズ来日騒動、そのすべて(2020年)

④「ビートルズ・ファン・クラブ」大全  (2022年)

 

最新刊が6月30日に発売された「『ビートルズ・ファン・クラブ』大全」。この本は、ビートルズ公認の日本のファンクラブ「ビートルズ・ファン・クラブ(BFC)」の活動を丹念に追ったもので、当時の会報も全て掲載されている本です。本当に良く調べたと思います。

【裕】すごい本ですよね。会報などはどこで手に入れたんですか?

【大村】知人が、当時の会員だった方から会報を譲り受けまして、それを私に「まとめてくれ」と託されたんです。また、当時BFCのスタッフだった方とコンタクトを取ることができて、内部資料をお借りしました。

【サミー】詳しいお話は、番組後半の「今週のビートルズ・ラバー」のコーナーでたっぷりと語っていただきたいと思いますが、今週ご紹介する曲は?

【裕】「パスト・マスターズVol.1」から、「ラヴ・ミー・ドゥ」と「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「サンキュー・ガール」をご紹介します。

杉田裕の今週の1曲は「ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)」

【裕】デビュー曲はプロデューサーが用意した曲ではなくて、オリジナル曲で行くんだという熱意を示したビートルズですが、「ラヴ・ミー・ドゥ」は3テイクも録っています。いずれもドラマーが違います。

①62年6月6日のピート・ベストのテイク。これはオーディションも兼ねていました。

②62年9月4日のリンゴ・スターのテイク。

③62年9月11日のアンディ・ホワイトのテイク。

この3つのテイクについて、往々にしてドラムのことが語られることが多いですよね。もちろんアレンジも微妙に違います。なぜリンゴのテイクの後にアンディ・ホワイトのテイクが録音されたのか?それは、ポールに原因があったと僕は考えています。

リンゴのテイクを聞くと、ポールのボーカルは上ずっていて、しっかり出ていない。ジョンはハーモニカもコーラスもきちんとやっているのに、ポールは上ずっている。しかもベースのチューニングが怪しい。よく聞くと、ちょっとシャープ目な感じがするんです。リンゴのドラムが原因と言われていますけれど、ポールの出来が悪かったから撮り直したというのが僕の説です。

【サミー】シングルは、ファースト・プレスはリンゴのバージョンだけど、セカンド・プレスからはアンディ・ホワイトのバージョンに替わっています。シングルは最初からリンゴ・バージョンで行こうとしたのか?それとも間違って出してしまったのか?

【裕】リンゴを先に録って、後からもう一度録り直している。リンゴ・バージョンを出してしまって、「まずいよこれは!」ってなったのかな。

【サミー】ポール原因説は、良い点を突いている。

【大村】これは結構鋭いと思いますよ。最近、ポールがライブのMCで、この曲の僕のボーカルが震えているんだよって言っている。

【サミー】ベースのシャープ目という観点も、目の付けどころがシャープですね。

【裕】サウンドが全体的に暗いんですよ。

【サミー】ではその辺りを意識して聞いてみてください。

【裕】「パスト・マスターズVol.1」1曲目の「ラヴ・ミー・ドゥ」です。

 

 

 

サミー小川の今週の紹介曲は「フロム・ミー・トゥ・ユー(From Me To You)」と「サンキュー・ガール(Thank You Girl)」

【サミー】東京ディズニーシー、ありますよね。そこに「ニューヨーク・デリ」というデリカテッセンがありますが、大通りからそこに続く小道は「ティン・パン・アレー」という名前が付けられています。音楽好きの皆さんは「ティン・パン・アレー」と聞いて2つ思い浮かべると思います。日本のバンドーーー細野晴臣さんや松任谷正隆さんたちがやっていたバンドと、ニューヨークの音楽出版社が集まっている一角の2つですね。ニューヨークの方は26丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角で、20世紀初頭頃に音楽出版社が集まっていたことから、そこから送り出された大衆音楽も指すようになりました。ちなみに、Tinはブリキ、Panは鍋、Alleyは小道という意味で、鍋釜がガチャガチャなっているような賑やかな路地だったそうです。

さて、この「フロム・ミー・トゥ・ユー」について、ノーザン・ソングス社長だったディック・ジェイムスは「完璧なティン・パン・アレーだ。シンプルで単刀直入で、繰り返しが多いがなぜか心を動かされる。スタンダード・ポップの名作だ」と言っています。音楽出版社の社長として、楽曲を単なる商品として見ていたことが分かる言葉です。いわゆるティン・パン・アレーの職業作家が書いたような作品だという言い方ですよね。

【サミー】ボブ・ディランは1963年のアルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」に収録されている「ボブ・ディランのブルース」の冒頭で、「この曲はティン・パン・アレーで書かれた多くの歌とは似ていません。これはアメリカの名もない場所で書かれた歌です」と言っています。ビートルズの心は、ディランに近かったのではないかと僕は思っています。いわゆる職業作家が書いたような曲ではなくて、オリジナリティのある曲だと主張したかったように感じます。実際、ツアーの移動中に書かれた曲ですしね。

この曲はビートルズというバンドの魅力が詰まった音作りがされています。ハーモニカ、コーラス、ファルセットという、この頃の彼らの3つの武器を使って、魅力全開です。「サンキュー・ガール」もこの3つの武器を使っていますが、習作という感じでしょうか。「サンキュー・ガール」を作ったから「フロム・ミー・トゥ・ユー」ができたと考えると分かりやすいと思います。

 

 

「今週のビートルズ・ラバー」大村亨さんが、ビートルズ・ファン・クラブの知られざる歴史を語る

ゲストを迎えてビートルズ愛を語っていただく「今週のビートルズ・ラバー」のコーナー。今週はゲストに大村亨さんをお迎えしています。

 

【サミー】大村亨さんは「『ビートルズ・ファン・クラブ』大全」という本を6月30日に出版されました。ビートルズ公認のファンクラブだった「ビートルズ・ファン・クラブ(BFC)」の活動や、当時の細かい資料を網羅したものです。この本を書こうと思ったきっかけは?

【大村】BFCという存在は以前から気になっていたのですが、資料が圧倒的に少なくて、活動の様子は分かりませんでした。会報はペラ紙一枚、個人的に少しは持っていましたが、歯抜けが多くて、知りたくても知ることができないというのが実情でした。

ところがある時、山口県の医師でコレクターとしても著名な吉川功一さんという方が、東京に来られた際に「こんなものが見つかりましたよ」って手提げ袋を渡してくれたんです。その中には大きなファイルが3冊入っていて、BFCの会報がほぼ全て綴じ込んでありました。これまで見たこともないものでした。吉川さんは「私が持っていて死蔵させてはいけないもの。大村さんに預けるので本にまとめて出してもらえないだろうか」ーーーそう言って託されました。

【サミー】BFCの成り立ちを教えてください。

【大村】きっかけは映画「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」です。この映画が日本で最初に上映されたのが1964年8月1日、松竹セントラルでした。今の松竹の本社ビルが立っているところにあった映画館ですね。当時、松竹セントラルの会長だった下山鉄三郎さんが立ち上げました。その時代の映画館は入替制ではなかったので、観客が朝から晩までずっといるとか、開館前から行列を作るとか、ビートルズ・ファンの子たちは物凄く熱心。他の映画にはない現象だったそうです。

【裕】昔の映画館はそうでしたよね。

【大村】お弁当を持ってくる人もいたみたいですね。下山さんは当時40歳代後半、子供たちの非行防止活動に熱心な方だったので、彼らのエネルギーを変なところに向かわせないようにという親心もあった。それで、ファンを集めて組織を作ろうと考えたのがきっかけでした。

【サミー】このBFCは英国のビートルズ側の公認になりました。下山さんが特別な関係を築こうと動いたのでしょうか?

【大村】1964年8月に母体となる組織が立ち上がりましたが、正式な発足は1965年1月でした。そのタイミングで「ヤア!ヤア!ヤア!」を再上映しています。立ち上がった頃は公認ファンクラブではありません。ビートルズは各国に1つだけファンクラブを公認していましたが、日本で最初に公認になったのは「レッツ・ゴー・ビートルズ」(LGB)という組織でした。LGBはあまり熱心ではなかったというか、ちゃんとした活動をしてくれなかったらしい。ビートルズ側は不信感を抱くようになったみたいです。

【サミー】LGBには下心があった?

【大村】LGBはファンクラブの体をとってはいるものの、実際のところはビートルズ来日を目論んでいたプロモーターが立ち上げたものでした。フロントには女の子を立てていたけれど、ビートルズとのコネを作ろうとしていた組織だった。最初は公認してみたものの、あまり真面目に活動していないことをビートルズ側が知ることになり、BFCの方に気持ちが動いていったようです。1966年に来日した際に、下山さんとビートルズは独占会見をしています。その前段で、広報担当のトニー・バーローから「LGBは信頼が置けないのでBFCに公認になってもらいたい」というオファーを受けて、初めて公認ファンクラブになりました。

【サミー】その頃の会員数は?

【大村】1966年4月の最盛期で8640人でした。

【サミー】お話は尽きませんが、時間となりましたので、この続きは来週お送りします。BFC設立のきっかけとなった映画「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」の主題歌にもなっています「ア・ハード・デイズ・ナイト」を聞いていただきながら今週の放送は終了します。来週お会いしましょう!

 

 

 

エンディングテーマは「絶望してる暇はない」