私の父は熊本生まれで、太平洋戦争の時は朝鮮(今の韓国)の京城(今のソウル)にいて、高校卒業の頃、朝鮮から大阪に帰ってきました。私の母は大阪の堺の生まれで、本人がよく言っていたのですが、実家は古くからの藍染めの大きな商家で、敷地の中に川が流れていてお手伝いさんが何人もいるような裕福な暮らしをしていましたが、母の祖父がセルロイドの商売に手を出して、あっという間に没落してしまったそうです。父と母の二人は、大阪で「久保田鉄工」(今の「㈱クボタ」)に勤めていて、職場結婚しました。

 私は、成人してからは東京や千葉で暮らしていますが、そういうわけで、もともとは大阪生まれです。正月になると初詣でにぎわう住吉大社の近くで生まれました。大阪には小学校1年の1学期が終わるまでしかいなかったので、細かい記憶はあまりありませんが、断片的に覚えていることはいくつかあります。住吉大社には母に連れられてよく散歩に行っていて、太鼓橋があり、真っ白なご神馬がいました。父の会社の社員寮のアパートに住んでいたんですが、その近くに「象印魔法瓶」の工場があり、友達と忍び込んで鉄の削り屑などを取っていたら、工場のおじさんに怒鳴られて、慌てて逃げました。アパートの近くにたこ焼きの屋台があり、経木(木材を削って紙のように薄くしたもの)の舟に6個ぐらい入ったっものが5円だったと思います。私は、今でも、たこ焼きやお好み焼きなどの粉モノが大好きです。

 小学校1年の1学期が終わるとともに、父の転勤で、九州の福岡に引っ越しました。もう夏休みになっていたので、兄の自転車の後ろに乗って、2学期から通う小学校を見に行きました。大阪と比べて太陽の光がとても強くて、セミがうるさいほど鳴いていたのを覚えています。

 福岡は独自の文化を持っているのですが、テレビなどはやはり大阪の影響が強く、毎週土曜日には「吉本新喜劇」を必ず見ていました。関東で育った私の妻は、吉本新喜劇を見て「何が面白いのか分からない」と言います。笑いのツボが違うのです。私の子供の頃は、「花木京」さんと「岡八郎」さんが吉本新喜劇の二大看板でした。岡八郎さんの、尻の臭いを嗅いで「くっさー!」とか、腰の引けたポーズでの「どっからでもかかってこんかい!」とかのコテコテのギャグは本当に面白かった。また、花紀京さんは、岡八郎さんが繰り出すギャグに直接乗っかることなく、満面の笑みを浮かべてOKサインを出したり、「これは新しいネタやから知らんやろう」などと絶妙に外して笑いを倍増させる、という芸風でした。

 

 

 

 

【坂田利夫さんのご冥福をお祈りします・・・(2023.12.29逝去)】

 

 

 

 福岡も、笑いについては結構どぎつい面があり、これは武田鉄矢さんが福岡のおばちゃんについて言っていたことですが、例えば、おばちゃんに「〇〇さんのこと、知っとうね(知ってるか)?」と聞いたら、おばちゃんは「よう(よく)知っとります。ケツの穴のしわの数まで知っとります」と答えるそうです。多分に武田鉄矢さんの脚色が入っているとは思うのですが、福岡人の気質として、確かに過激に表現して面白がるという気質があるのは確かだと思います。

 小学校の時、何か悔しいことがあって泣き顔になっている友達がいると、何人かが周りで「泣きやんなー(泣くなよ) イモやるけん(あげるから) 食いやんなー(食うなよ) 屁が出るけん(出るから)」と何度もはやし立て、しまいにはその友達が「ウヘヘヘー」と笑いだす、ということをよくやっていました。からかっているようで、何か優しい面があると私は思うのですが・・。

 福岡は、春になると暖かく強い風が吹いて空が黄色くなっていました。その頃の博多ラーメンは今と違って豚骨の臭いにおいが強烈で、今も覚えています。でも、それが美味しかったのです。

 

 

私は、今でも大阪と福岡が大好きです。

 

※ Xに画像を投稿しました(2024.1.10)。

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