皆さんは「フォークソング」という音楽を知っていますか。もともとは、米国で「ウディー・ガスリー」などがアコースティックギター一本で生活に根差した内容を歌っていたものがその源流のようです。日本では、いわゆる「70年安保」以後、ベトナム戦争が泥沼化する頃に、若者たちの間に爆発的に広まりました。

 私は、この時代には、まだ青年期に差し掛かる前でしたので、この時代に若者に支持された「岡林信康」さん、「加川良」さん、「高田渡」さんなどの、政治への批判や社会の矛盾を歌った方の歌を、リアルタイムでは聞いていません。ただ、「坂崎幸之助」さんのラジオ番組や坂崎さんが「なぎらけんいち」さんとやっていた番組などで後追いで聞いていますので、この方たちの歌については、別の稿でお話ししたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 今回は、若い頃の私に大きな影響を与えた1970年台以降のフォークソングについて、私なりにお話ししたいと思います。少し前置きが長くなりますがご容赦ください。

 こどもの頃、私が聞いていた音楽と言えば、テレビから流れてくる歌謡曲だけでした。歌謡曲の中には、マイク真木さんの「バラが咲いた」や加藤登紀子さんの「知床旅情」などの、普通の歌謡曲とはちょっと違う曲もあり、そのような曲は子供心にも「何かいいな」と思っていました。最初に「フォークソング」に接したのは、NHKの「みんなのうた」で流れていた「さとうきび畑」だったと思います。中学生の頃にテレビから流れるこの曲を聞いて「なんていい曲なんだろう」と思いました。後で分かったことなのですが、「みんなのうた」で歌っていたのは「森山良子」さんではなく「ちあきなおみ」さんだったようです。

 

 

 

 

 私の中学生の頃は、3年ぐらいになると、音楽が好きな友達はみんなフォークギターを持っていましたが、私はフォークギターの存在すら知らなくて、ずいぶん奥手な中学生だったと思います。

 私は、中学の卒業とほぼ同時に、父親の転勤で、それまで住んでいた九州の福岡市から宮城県の仙台市に転居しました。福岡と仙台では、生活様式や住んでいる人の気質が全く異なり、福岡では友達もいっぱいいましたが、もともと引っ込み思案な性格の私は、仙台での生活になじめず暗い高校生活を送っていました。

 そんな時に、テレビから博多弁の歌が聞こえてきました。爆発的にヒットした「海援隊」の「母に捧げるバラード」でした。「なんばしようとね、この子は」などの懐かしい博多弁を聞いて、私はなにか心が温かくなりました。海援隊が、その次にリリースしたシングルは「故郷いまだ忘れがたく」という曲で、私はこのシングル盤を買い、博多弁なまりの武田鉄矢さんの歌を聞いて、孤独を慰めていました。海援隊はその頃「エレックレコード」というレーベルに所属していて、このレーベルからリリースされた海援隊の「海援隊がゆく」と「望郷篇」というアルバムも買って、毎日のように聞いていました。

 

 

 

 また、この頃、「長谷川きよし」さんの「別れのサンバ」が大ヒットしていて、私は、盲目の歌手である長谷川きよしさんの陰(かげ)のある歌声に惹かれて(本当はとても明るい性格の方だそうです)、長谷川きよしさんのファーストアルバム「一人ぼっちの歌」を買いました。このアルバムに収録されている歌は、表題曲の「一人ぼっちの歌」を始め「孤独の炎」、「冷たい夜に一人」など寂しい歌が多く、その頃の私の心に沁み込んでいきました。ただ、収録されているラストの曲が「光の中に」という曲で、この曲は、フランスの「ジルベール・ベコー」という歌手が歌った曲を日本語に訳している曲ですが、その歌詞は「来い 闇を抜け 雲をはらい光へ」で始まり「戻ってこい 光へ さあ生きろ」で終わるもので、いわば暗闇に沈んでいた私をどれだけ勇気づけたか分かりません。

 

 

 

 今回は、1970年台以降のフォークソングについてお話しする以前で終わってしまいました。

(続く)

 

※ Xに画像を投稿しました(2023.11.30)。

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