皆さんは、「トキワ荘」をご存じでしょうか。昭和20年代の後半から昭和30年代の前半にかけて、漫画に情熱をかけた青年たちが集(つど)ったアパートです。現在の住所で言うと東京都豊島区南長崎(当時は椎名町)にあったアパートで、2階に四畳半の部屋が10室あり、他に共同炊事場とトイレがありました(1階の用途は未確認)。

 私は、トキワ荘関連の本をいくつか持っています。列挙すると、「トキワ荘青春物語」(蝸牛社 1995年)、「トキワ荘青春日記」(カッパ・ノベルズ 1981年)、「まんが道」(全14巻 中公文庫)、「愛・・・しりそめし頃に・・・」(全12巻 小学館)です。

 私がトキワ荘のことを初めて知ったのは高校生の頃で、1970年代の前半(昭和40年代の後半)です。その頃、手塚治虫さんの虫プロ商事が発行していた「COM」という漫画月刊誌に、かつてトキワ荘に住んでいた(または通っていた)漫画家13人が当時の思い出を漫画にした連作(+当時の編集者のエッセイ)が掲載されていました。私は遅れてきたCOMの愛読者でバックナンバーをかき集めて読んでいましたので、その連作の全てを読むことはできませんでした(後に「トキワ荘青春物語」で全話を読むことができました)が、例えば、「藤子不二雄」さん、「赤塚不二夫」さん、「石森章太郎」さんなどの回を読んで、「へえ、あの高名な漫画家たちに、こんなにも純粋で苦しくも楽しい青春時代があったんだ」と、何か暖かいような懐かしいような気持になりました。

 トキワ荘は1952年(昭和27年)に建てられました。その当時すでに売れっ子の漫画家だった手塚治虫さんが、「ジャングル大帝」を連載していた「漫画少年」という月刊漫画誌の出版社である「学童社」の編集者であった加藤泰弘さんの紹介で入居したのが、後に多くの漫画家を輩出するトキワ荘の始まりでした。

 「漫画少年」という月刊漫画誌は1947年(昭和22年)に創刊された歴史ある漫画雑誌で、漫画の投稿欄を設けて入選作を掲載し、プロの漫画家に憧れる若者たちが続々と投稿する漫画界への登竜門的な存在でした。

 手塚治虫さんがトキワ荘に入居した翌年の1953年(昭和28年)に、新潟から上京してきた「寺田ヒロオ」さんが手塚治虫さんの向かいの部屋に入居します。寺田ヒロオさんは、漫画少年の投稿欄の担当を手塚治虫さんから引き継いでおり、寺田ヒロオさんを慕って、投稿欄の常連の入選者たちが地方から次々と上京しトキワ荘で暮らしたり訪ねてきたりするようになりました。

 寺田ヒロオさんは大変に面倒見のいい人で、自然とトキワ荘のリーダー的な存在となりました。藤子不二雄Ⓐさんの著作「まんが道」、「愛・・・しりそめし頃に・・・」には、寺田ヒロオさんと後輩(例えば、藤子不二雄さん、赤塚不二夫さんなど)との心温まるエピソードが数多く描かれています。ただ、寺田ヒロオさんにとってみれば、漫画に命を懸けている後輩の前で「頼もしい兄貴分」としてふるまうのは、相当の精神的負担だったのではないでしょうか。また、純粋に漫画を愛していた寺田ヒロオさんの晩年の状況を思うと、今でも胸が痛みます(別の稿でお話しします)。

 上京してから間もなく、ほとんどの原稿を落とす(間に合わない)という大失敗をしてしまった藤子不二雄のお二人や、しばらく目が出ず金銭的に困窮していた赤塚不二夫さんは、もしも寺田ヒロオさんがいなかったら、漫画家を続けていなかったかもしれません(むしろその可能性が高い)。そうしたら、日本の漫画界は全く違う姿になっていたと思います(ドラえもんも天才バカボンも存在しない)。改めて、寺田ヒロオさんの存在がいかに大きかったのかと思います(Vol.31【藤子不二雄Ⓐがいなければドラえもんは存在しなかった①】を参照)。

 漫画を描くということは本当に孤独な作業だと思います。ましてや、まだ売れていない漫画家が、売れるかどうかも分からないものをコツコツと描き続けることは、相当な精神的重圧だったと思います。トキワ荘という、いわば「生活共同体」としての場があり、その中心に寺田ヒロオさんがいたということが、漫画に情熱を傾ける若者に、どれだけ勇気と安らぎを与えたのか、計り知れないものがあると思います。

 長い日本の漫画の歴史の中で、人気を不動にした漫画家、かつては人気があったが今は忘れられている漫画家、失意の中消えて行った漫画家・・・成功した漫画家もそうでない漫画家もいると思います。ただ、言えることは、あの時代にトキワ荘に集った若者たちは、みんな、確かに幸せな時を過ごしたのではないかということです。

 (「ゆっくり解説」の動画を引用させていただきます。ありがとうございます)。

 

※ 「X」に画像を投稿しました(2023.8.24)。

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