昭和20年代の後半から昭和30年代の前半にかけて、海外のヒット曲に日本語の歌詞を付けて日本人が歌う歌が大流行しました。ダニー飯田とパラダイス・キングの「ステキなタイミング」(ヴォーカルは坂本九)、山下敬二郎の「ダイアナ」、弘田三枝子の「ヴァケーション」など、列挙したらとめどがありません。(こどもの頃、「ヴァケーション(VACATION)」を聞いて、「ビーエーシーエーティヤヨエーン楽しいな」という歌詞を聞いて「変な歌詞だなー」と思っていました)。

 

 

 その後、1962年にあの「ビートルズ」が「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューし、瞬く間に、英国だけでなく世界中の人気者になります。当時の映像(映画「A Hard Day's Night」など)を見ると、その凄まじいまでの人気ぶりが分かります。

 

 

 その人気ぶりを見た米国の音楽業界は、米国でも同じようなアイドルバンドを作ろうとして、メンバーのオーディションを行い(参加者の中には、後のCSN&Yのスティーブン・スティルスもいて、落とされたそうです)、オリジナルの楽曲も用意するなど、周到な準備の後に、4人組のアイドルバンド「モンキーズ」をデビューさせます。モンキーズは1966年8月に「恋の終列車」をリリースし、続いて1967年にリリースした「デイドリーム・ビリーヴァー」も大ヒットし、テレビの「ザ・モンキーズ・ショー」との相乗効果で、見事に人気者になります。

 

 

 

 日本の音楽業界は、米国よりもかなり早く、和製のアイドルバンドを作ろうとして、1964年に若手歌手を寄せ集めて「東京ビートルズ」を結成します。ビートルズがビルボードチャートを独占してから、わずか1ヵ月後の1964年3月初旬のことでした。

 東京ビートルズは、1964年に、シングル盤として「抱きしめたい/プリーズ・プリーズ・ミー」と「キャント・バイ・ミー・ラブ/ツイスト・アンド・シャウト」をリリースしますが、これらの曲の演奏はスタジオミュージシャンが行い、メンバーが担当したのはヴォーカルのみだったそうです。音楽的な質が低いことから批評家から酷評されてしまい、また、追い打ちをかけるように、1965年にはベンチャーズの来日公演をきっかけにエレキブームが起こり、東京ビートルズの人気は急速に衰えて行きました。さらに、1967年には、「ブルーコメッツ」、「タイガース」、「スパイダース」などの「グループサウンズ」の一大ブームが起こり、東京ビートルズはすっかり忘れ去られた存在となり、1967年の春ごろに解散しました。

 東京ビートルズの楽曲の訳詞を手掛けたのは、ダニー飯田とパラダイス・キングの「ステキなタイミング」や中尾ミエの「可愛いベイビー」など訳詞総数400を超え、一世を風靡した訳詞家「漣健児(さざなみけんじ)」さんでした。

 しかし、例えば、東京ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラブ」の出だしの歌詞は「買いたいときにゃ金出しゃ買える」で始まるのですが、これはどちらかと言えば「お笑い」の世界で(「にゃ」とか「しゃ」というのはどうも・・)、ビートルズの世界からはかけ離れていると、私は思うのですが・・。

 編曲・アレンジを担当したのは、当時日本ビクター関連のアレンジを一手に引き受けていた「寺岡真三」という方でしたが、楽譜で表現できない要素が大きいロックミュージックを、その前の時代のサウンドで解釈した結果、東京ビートルズのサウンドは「何だこりゃ?」というものになってしまったと私は思っています。

 結果として、東京ビートルズは、オリジナルなロックバンドでもない、コピーバンドでもない、コミックバンドでもないという、極めて中途半端なバンドとなりました。ビートルズが出現するまでは、日本の歌謡界では、米国でヒットした楽曲に日本語の歌詞を付けて、ジャズなどを基調とした編曲をして、日本人の歌手が歌うというやり方で成功していましたが、ビートルズの楽曲がそれまでの音楽とは全く異なることをスタッフが理解できないままデビューしたことが、東京ビートルズの不幸だったと思っています。

 

東京ビートルズの楽曲:

 

 

 

 

ビートルズの楽曲:

 

 

 

 

※ ツイッターに画像を投稿しました(2023.8.16)。

https://twitter.com/sasurai_hiropon