私は、若い頃、石野真子さんのファンでした。

 今になって思うのですが、どうも私は、美人タイプの女の人ではなく、ちょっとぽっちゃりして、垂れ目の女の人に魅力を感じるようです。「男は自分の母親に似た女の人を好きになる」とどこかで聞いたことがあるのですが、私もそれに当てはまるようです。若い頃は気付いていませんでしたが・・。若い頃に、口の悪い私の先輩に石野真子さんが好きだと話したところ、「あんな垂れ目で歯がぐちゃぐちゃの女のどこがいいんじゃ」と広島弁で馬鹿にされていました。石野真子さんはデビューの頃は歯並びが悪かったんです。

 石野真子さんは、かつて大人気だったスターオーディション番組「スター誕生!」の1977年の第20回決戦大会に合格し、デビューしました。

 ここで、「スター誕生!」という番組について、少し話をさせてください。「スター誕生!」は、1971年10月から1983年9月まで12年間に亘って放送された、視聴者参加型歌手オーディション番組でした。この番組からは、数多くのスターが生まれました。年代順に列挙します(敬称略)と、森昌子、桜田淳子、山口百恵、城みちる、伊藤咲子、片平なぎさ、岩崎宏美、新沼謙治、ピンク・レディ、石野真子、柏原芳恵、小泉今日子・・。本当に多くのスターを輩出しました。欽ちゃん(萩本欽一さん)の暖かい司会が印象に残っています。坊主頭と紫の学生服でデビューした藤正樹さんはその後どうされてるんでしょうか・・。

 

 この決戦大会では、名だたる芸能事務所のスカウトマンが会場の最前列で見ていて、出場者が全員歌い終わると、出場者は、ステージの真ん中で一人ずつ「よろしくお願いします!」とあいさつして、その人をスカウトしたい芸能事務所はプラカードを挙げるという流れになっていました。一社もプラカードが上がらない人もいて、その時には、私もテレビで見ていて「可哀そうだなー」と思いましたが、やはりプロの道は厳しいんですね。石野真子さんは、なんと16社がプラカードを挙げました。プロの目から見て光るものがあったんでしょうね。

 石野真子さんは、郷ひろみさんや長山洋子さんなどが所属する「バーニングプロダクション」に所属することになりました。その後、約1年をかけて、デビューに向けて歌のレッスンなどの準備をしました。デビュー曲は、あの「吉田拓郎」さんが作曲することになって、二人は六本木のバーで初めて会ったそうですが、吉田拓郎さんは、その時の石野真子さんの印象を、後に著書の中で、「本当にこの人がデビューするのかと思うほど太っていたが、3か月後のレコーディングの時には見違えるほど変身していた」と述べているそうです。

 石野真子さんがデビューしたのは1978年で、デビュー曲は、作詞:阿久悠、作曲:吉田拓郎(敬称略)の「狼なんか怖くない」でした。キャッチフレーズは「100万ドルの微笑」で、八重歯と垂れ目をチャームポイントにしていました。そういえば、その頃人気があったモデルのアグネス・ラムさんや女子プロゴルファーのローラ・ボーさんも、どちらかと言うとファニーフェイスでしたね。

 

 

 2作目も同じ作詞・作曲コンビで「私の首領(ドン)」、3作目は作詞:阿久悠、作曲:穂口雄右(敬称略)の「失恋記念日」で、石野真子さんは、この「失恋記念日」で第20回レコード大賞新人賞を受賞しています。その頃のレコード大賞というのは非常に権威があって、その賞を受賞するというのは大変なことでした。その後も、「日曜日はストレンジャー」、「ワンダー・ブギ」、「ジュリーがライバル」などコンスタントにヒットを飛ばし、また、「カックラキン大放送」などのお笑い番組や「熱愛一家・LOVE」などのドラマにも出演し、お茶の間の人気者になりました。

 石野真子さんは、1981年6月に記者会見し、長渕剛さんと結婚を前提に交際中で同年8月に引退すると発表しました。その時の私の落胆ぶりといったら・・。「なんで長渕なんかと結婚するんだ」(失礼!)という気持ちでした。

 石野真子さんは、長渕剛さんとは2年後の1983年に離婚して芸能界に復帰しましたが、私は、その後は、以前のような熱烈なファンではなく、「暖かく見守る」という気持ちになり現在に至っています。

 

 

※ ツイッターに画像を投稿しました(2022.10.14)。

https://twitter.com/sasurai_hiropon