こんばんは。
以前のブログで、「幼少期に「おもちゃ」をまだ知らなかった頃、私達はなんでもない石ころを、車に見立てたり、人間に見立てたり、お金にしてみたり、何にでも変えて遊ぶことができました。ところが、いったん車のおもちゃだとか、お人形を知ってしまうと、もう石ころはただの石にしか見えなくなってしまいます。」という文章を書きました。
これに通じるメッセージが込められているレゴの広告がありましたのでご紹介します。↓のような広告です。
なんでもない2つのブロックですが、その影は船になっています。このブロックは、それで遊んでいる側から見ると、船に見えているということなんですね。
ブロックは、ただ見ているだけではブロックに過ぎませんが、そこに無限の想像力を込めると、こんなふうに船になったり、あるいは車になったり飛行機になったりと、何にでも変えることができます。
子供の創造性を伸ばすという観点からすると、具体的な形のあるおもちゃではなくて、こういったブロックで想像を巡らしながら遊ぶほうがいいのかもしれませんね。
吃音に当てはめてみるとどうでしょうか。吃音の人は、言葉のつっかかりを吃音としか認識することができません。そのために、実は吃音ではない、普通の人も緊張したときに起こる言葉の乱れも、吃音として認識したりします。そんなふうに、特定の一つの考え方・見方に固着しているのが吃音のよくある特徴です。
そうではなくて、ブロックを船にしてみたり、あるいは車や飛行機にしてみるような豊かな見方ができれば、その人から見える世界はまったく違うものになるはずです。
まだ幼く、言葉の突っかかりに「吃音」という名前をつけることもなく、自分が吃音であると意識することもなかった頃、私たちの思考や発想はもっと自由であったと思います。それがいつしか凝り固まって、ブロックをブロックとしてしか見られなくなってしまう。
大人になると、いろんなことが当たり前になってしまっていますが、それは本当にそうでしょうか。一つ一つ見直してみて、解きほぐしていくと、新しいことが見えてきます。