こんばんは。
私の勤務先である大学では、そろそろ前期が終わる時期になります。
学生は期末試験の勉強をしている時期ですが、私は教員側なので、この一週間は期末試験の問題作成や、その実施に時間を費していました。
期末試験を行うさいは、開始前に注意点を説明したり、終了後に回収して成績評価の仕方を説明したりします。
この一週間はそれをずっとやっていたのですが、思い返してみると、吃るかどうか気にしていた記憶がありません。普通に喋る分には、吃音が意識に登ることはもはやほぼ無くなったといえます。
不意に吃ることはもちろんありますが、それをほぼ気にしていないというのが、かつてと比べての違いだと思います。
そういうふうにしてみると、吃音というのは、吃ること自体が問題なのではなくて、それをどう経過するかが問題なのではないか、と思いました。
吃音者は吃ることを極度に恐れますが、人間が成長していく過程において失敗することはむしろ当たり前です。人間以外の動物も、本能だけで生きている生物を別にすれば、失敗と成功を繰り返しながら成長していきます。
動物が狩りを覚える過程にしても、絶対に失敗しながら身につけていきますよね。最初から最後まで成功し続ける動物は見たことがありません。
そういうふうにしてみると、失敗しないことにエネルギーを注ぐよりも、いかに失敗を活かすかとか、失敗をタブー視しないといったことが大事になってきます。
吃音というのはその逆をやっているので、それは生きにくくなりますよね。吃ってはいけない、ということを突き詰めると、最終的には言葉を発しないとか、引きこもるしかなくなります。
これは吃音以外のことにもいえることで、勉強とか、学歴とか、職業とか、年収とか、社会的地位などを、「◯◯でなければならない」と考え始めると、とたんに生きづらくなります。
こうした「◯◯でなければならない」という規範的な意識を外していくと、人間はどんどん生きやすくなっていきます。ロジャーズの人生も、伝記を読むとよく分かりますが、だんだん自由になっていく過程でした。
代表的なロジャーズの伝記である諸富祥彦先生の『カール・ロジャーズ入門』も、副題は「自分が“自分”になるということ」になっています。