今日は私の好きな言葉の一つをまたご紹介したいと思います。
中国の古い言葉で、「無一物中無尽蔵」というのがあります。
これは蘇東坡という宋代の詩人が書いた詩の一部だそうなのですが、全文は以下のようなものです。
「紈素(がんそ)画(え)かず意高き哉(かな)
若(もし)丹青(たんせい)を著(つ)くれば二に堕し来る
無一物(むいちぶつ)中、無尽蔵(むじんぞう)
花あり月あり楼台あり」
意味としては、「布地には何も書かれていないのがよい。何か書かれると(ここでは青色)、二流に落ちてしまう。何もないところには何でもある。花もあれば月もあり楼台もある」というような感じです。
要するに、何も書かれていないと、そこに何があるか無限に想像を広げることができる。
しかし、何か書かれてしまうと、それに制約されて、もうそれにしか見えなくなってしまう。
むしろ、何もないところにこそ、何もかもを見出すことができる、というものです。
例えば、幼少期に「おもちゃ」をまだ知らなかった頃、私達はなんでもない石ころを、車に見立てたり、人間に見立てたり、お金にしてみたり、何にでも変えて遊ぶことができました。
ところが、いったん車のおもちゃだとか、お人形を知ってしまうと、もう石ころはただの石にしか見えなくなってしまいます。
そして、車ならトミカ、電車ならプラレール、人形ならジェニーちゃんとかリカちゃんとかシルバニアファミリーとかが無いと遊べなくなってしまうのです。
おもちゃを与えるときに、そこまで考える大人はまずいないでしょう。しかし、良かれと思っておもちゃを与えることは、子供の無限の想像力を奪い、型にはめていく面もあるのです。
小林秀雄の「美を求める心」に出てくるすみれの花のくだりもまったく同じで、私達はすみれの花はこういうものだと知ってしまうと、もうそれにしか見えなくなってしまう。
「すみれ」という名前を知ったとたんに、それは花の一種にカテゴライズされ、そこから現れる(顕現する)無限の美しさなどは感じ取れなくなってしまう。
花がただの花でしかなくなってしまうのです。
吃音にしても同じで、「こういうものが吃音」だとか「吃音は◯◯だからダメなのだ」とか一旦思うと、もうそれが固着してしまって、そうだとしか思えなくなり、それからはみ出した部分は全く見えなくなってしまう。
もっと言えば、「吃音」という言葉を知ったとたんに、なんでもない言葉のつっかかりもすべて「吃音」になってしまう。
大切なことは、そうやってガチガチに作り上げてきた型を崩すことです。
認知でもビリーフでもフレームワークでも呼び方は何でもいいですが、とにかく崩す必要があります。
「◯◯とはこういうものだ」という型を崩していくと、人間はどんどん楽になり、自由になります。
そして、これまで何も感じなかったところから、無限に感じるものが出てきます。
これも私が好きな言葉で、夏目漱石は晩年に「道端に落ちている一片の落葉にも、そこに無限に連なる何かが見える気がする」といったそうです。
このくらいのレベルになれば、目に見える世界はずいぶん違ったものになり、進むも退くも自由自在になるはずです。
私もカウンセリングを通じて修練を重ねることで、だいぶ自由になってきました。しかし、まだまだ不自由であるとしばしば感じます。
自由になるほど、自由でない部分が見えてくるのです。
カウンセリングにおける「自由」という究極のテーマを、これからも探求していきたいと思っています。
「◯◯とはこういうものだ」という型を崩していくと、人間はどんどん楽になり、自由になります。
そして、これまで何も感じなかったところから、無限に感じるものが出てきます。
これも私が好きな言葉で、夏目漱石は晩年に「道端に落ちている一片の落葉にも、そこに無限に連なる何かが見える気がする」といったそうです。
このくらいのレベルになれば、目に見える世界はずいぶん違ったものになり、進むも退くも自由自在になるはずです。
私もカウンセリングを通じて修練を重ねることで、だいぶ自由になってきました。しかし、まだまだ不自由であるとしばしば感じます。
自由になるほど、自由でない部分が見えてくるのです。
カウンセリングにおける「自由」という究極のテーマを、これからも探求していきたいと思っています。