日本に於ける野球というスポーツは 1871年に来日した英語教師、ホーレス・ウィルソンが東京大学の前身であった開成学校で学生に野球を教えた事が始まりとされている。

という事は、1867年に徳川慶喜の大政奉還があったのであんな大きな出来事から たった4年で 日本に野球が伝わった事になる。

私は 日本人が最初にしたスポーツは「野球」だと思っている。武道に関しては いつの時代から行われていたか分からないが ことスポーツに関しては野球だと思う。

その頃の呼び名は「ベース・ボール」で 1894年になって 中馬庚(ちゅうまん かなえ)氏が 色んな事を鑑み「野球」と名付けたのだ。

それ以降この競技は 日本人から「野球」という言葉で愛されるスポーツになったのだ。

しかし、一つ、疑問が残る。ホーレス・ウィルソンは 日本に来た当初 日本語は ほぼ 話せなかった。何しろ 日本は それまで 鎖国状態にあったのだ。因みに今年から 教科書では あの頃の事を「鎖国」と言わないらしいが。

とにかく、その頃のアメリカ人、ウィルソンが日本語を話せる訳がない。辞書も無い時代である。同時に、日本人にも英語を話せる人間はいなかったであろう。

日常会話程度は話せる人間がいたとしても その程度の語学力で、どのようにして野球のルールや技術を教えたのだろう、という疑問が残る。

当時の資料を調べていると とんでもない人物がいることに気がついた。それは「中浜万次郎」 だ。ジョン万次郎という名の方が皆さんにもお馴染みかもしれない。

ジョン万次郎は ウィルソンと同時期に開成学校の英語教師であった。ジョン万次郎は 日本人で初めて蒸気船に乗り、また、初めて ハワイに行き、そして アメリカ本土に渡った日本人最初の人間である。蒸気機関車も日本人で初めて乗った人物だ。

土佐藩出身で14歳の時、漁に出た時、遭難した所をアメリカの蒸気船に助けられ そのままアメリカへ渡ったのだ。

その後、オックスフォード学校に入り、英語・数学・測量・航海術・造船を学び、勤勉な彼の成績は なんと 首席だったという。

そして、24歳になった1851年に帰国している。1853年に「黒船来航」の時、江戸城に呼ばれ対応に追われる幕府に助言し、その功績を認められ漁師であった万次郎に「中濱」の苗字が与えられた。

当時、日本人で唯一 英語が堪能な人物であった事は間違いない。

そしてここからは 私の推測なのだが 日本人に野球を教えたのはウイルソンだが、ウィルソンの通訳をしていたのはジョン万次郎ではないか、と思うのだ。

この事に関する当時の文献は一切 残っていない。しかし、この中浜万次郎が「日米修好通商条約」の締結に関わったように 野球の伝承にも関わったのではないか、というのが私の推測である。何しろ、英語が堪能な唯一の日本人であった事は間違いない話であるからだ。

まっ、この真偽は ともかく 日本に 「野球」がやって来て 今年 で146年目を迎える。
WBCで大いに盛り上がった今年、タイガースも負けじとチームの底上げができた。

ずばり一番のライバルは「 広島カープ」だ。ジャイアンツに手こずっているようでは優勝はない。ジャイアンツの補強に危機感を覚える人もいるようだが、肝心の 2塁手と捕手のセンターラインが不安定だ。

WBCでの活躍で小林にプラスαはあると思うが 皆さんが思うほどは成長してない。

これは 野村克也さんが よく話ていた事だが「一流の投手とバッテリーを組んでいる間は捕手の成長は小さく、二流の投手を好リードして 初めて 優れた捕手と言えるのだ」と。

古田を酷評する時、「あいつは 一流投手のリードは上手いが 二流投手のリードは 全くの素人だ」とよく愚痴っていた。

野村さんの考えでは「一流投手なら捕手は壁で良い。ただ、投球を受けていれば 投手が勝手に抑える。しかし、二流投手を好投させるのは捕手の腕の見せ所だ」というものだ。

その言葉に 古田は発奮させられ、二流投手も好投させる日本を代表する捕手になったのだ。

WBCで小林がバッテリーを組んでいたのは 全て 日本を代表する一流投手だ。そんな難しいリードは無い。

ただ、大きな舞台を経験した事で どんな 波及効果があるかは分からない。野村さんの話を信じる私の判断が正しいのか、誤っているのか 来週からのペナントレースで明らかになるだろう。

兎にも角にも セリーグ5球団を倒さなければ 「優勝」は無い。来週からのカープ戦、昨年のセリーグ優勝チームに「挑む」姿勢を見せて欲しい。

今年も 毎週 月曜日に 極力 ブログをアップするつもりです。仕事や何かイベントで アップできない時があるあもしれませんが その時は ご了承願います。

頑張れ、タイガース!