今日は 日本野球の歴史をお話したい。

まず、1894年に 中馬 庚さんが ベースボールを「野球」に訳したとされている。これが、「野球」という言葉の始まりである。

実は最初、ベースを「底」と訳し「底球(ていきゅう)」としたのだが これではテニスの庭球と間違いやすいという事で ベースボールはフィールドでプレーする事からフィールドを野原と解釈し「野球」となったそうだ。

中馬さんは 第一高等中学(東京大学 教養部の前身)に 在学中 二塁手として活躍しただけではなく 監督も務めた。
1970年には「野球」の名付け親として 中馬さんは殿堂入りされている。

やがて1914年 明治大学、慶応大学、早稲田大学の三大学によって 初めてリーグ戦が行われる。1925年には東京六大学野球連盟が結成され野球人気に拍車が掛かった。

翌1926年には明治神宮球場が建築された。総工費 53万円のうち 5万円を東京六大学が負担した事が 今の神宮球場の優先権にも繋がっている。

ちなみに 甲子園球場は 1924年に建築され 総工費 250万円だった。
1937年に 後楽園球場が建築されるが総工費は 123万円だった。

こうしてみると甲子園の総工費は ずば抜けて高いことがわかる。

そして1934年には 米国メジャーリーグ選抜が来日した。その中には あのベーブルースやルーゲーリックも参加している。

この頃はまだ、日本にはプロ野球がなく 東京六大学の選手を中心にチーム編成された。結果は 16戦 全敗。そりゃ、メジャーリーグ選抜と日本の学生選抜が戦えば 相手にならないのは当然だ。一方的な試合だったという。

しかし、その中で ひとり快投を見せた投手がいた。メジャーリーグの打者をバッタバッタと三振にとった。ルー・ゲーリックにこそ本塁打を打たれ 0-1で敗れたものの ベーブルースから「凄い ピッチャーだ」と賞賛されたのだそうだ。

それが「沢村栄治」さんだ。

1934年 12月26日 日本初のプロ野球チーム 「大日本東京野球倶楽部」が結成された。翌年、アメリカ遠征に行くのだが 交通手段は船しかなく 3週間ぐらいの期間を要した。

その船の中で アメリカ国内で試合を行うにあたり 大日本東京野球倶楽部ではアメリカ人に わかり辛いし もっとわかりやすい名前にするように指摘を受けた。

同行したアメリカ人の中に 元ジャイアンツの選手がおり 「トウキョウ ジャイアンツ」にしてはどうか、とアドバイスされ 大日本東京野球倶楽部は「トウキョウ ジャイアンツ」を名乗る事になった。

帰国後、「ジャイアンツ」というのを「巨人」と訳し 東京巨人軍が誕生する。これが プロ野球の歴史の始まりである。
次回、この続きを話します。


さて、昨夜の試合に話を移そう。
とにかくいつまで経っても 走塁ミスが治らない。

すべては 状況判断のミスだ。足が入ったか入ってないかの問題ではない。もう散々 言い続けているし、疲れるだけなので 走塁ミスに関しては もう言及しない。

目標を失ったチーム相手に 6回裏 勝負をかける。新井良にバントをさせ、スタンリッジに代打を送った。

見事に失敗した。

ここで12回まで考えると 7~12回まで6イニングある。残る中継ぎ投手は 安藤、福原、久保、久保田、加藤、松田、ボイヤーと7人残っていた。

ボイヤーの2イニング目が惜しまれる。回をまたぐ投手起用は 失敗する事が多い。まして、外国人投手は イニングをまたぐ事を嫌う。

ボイヤーがそうか分からないが 実際、球速や球威が 2イニング目は落ちた。

森田の代打に新井貴を送って 何の意味があるのだろう。6回 先頭打者の福留が出塁した時 ネクストバッターサークルで 森田はベンチを見たり 新井良の打席を見たり キョロキョロしていた。新井貴が出てきた瞬間 ベンチへ戻った。

これじゃ、打てん。1・2打席目までに結果を出しておかないと変えられる、と思っているのだろう。どちらが悪いか判断しにくいが 使う方も使われる方も良い事はない。

ひいては 若手全体にその傾向があり 1・2打席までに結果を出そうと「力み」を感じる。そんな事で 力んでしまう選手が悪いのか 我慢強く使わない指揮官に問題があるのか 私には分からない。

ただ、チームにとっては 若手が育たない土壌になっている。どちらかが 改善しないと いつまで経っても 生え抜きの選手は育たない。

今シーズンも あと、9試合。CSの準備は 最優先だろうが 来季も踏まえてチームの底上げも重要課題だ。

常人では 大変な作業だが プロ野球の監督ともなれば 常人では勤まらない。残り 9試合、その手腕が試される。