引退するまで倉敷のメンバー | 大ちゃんを全力で応援

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フィギュアスケートの髙橋大輔くんへの
思いや気持ちを中心に書いていきたいと思います。



こんばんは~。

昨日は睡魔に負けてブログ更新出来ず終ってしまいました!

もう、みなさんこのコラム読まれたばかりだと思いますが

自分用に記録しておきたいと思います。



大ちゃんの人柄が自然とみんなを動かすんだと思います。

一時だけではなくず~と続けて行くこが大事なんんですよね!


http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201503230002-spnavi

クラブと共に、佐々木美行の新たな夢

フィギュアスケート育成の現場から(9)


20年を超えるクラブの歴史の中で……



「どこかのリンクに合宿に出かけていっても、なかなか練習する時間を確保できないこともありました」

 倉敷フィギュアスケーティングクラブ(倉敷FSC)の監督、佐々木美行は振り返る。

 創立から20年を超え、数々の選手を輩出してきた。実績は、歴史を築いてきたからであり、その歴史の途中では、新興クラブの立場にあったときがあったし、だから、実績のあるクラブに押され、優先順位が低くならざるを得ないときもあった。

 そうした時期を経て、今日がある。

 これまでの道のりは、すべてが順風満帆であったわけではない。
 中でも、クラブにとって大きな危機となった出来事があった。

「あのときは本当に大変でした」
 佐々木は言う。

 現在はヘルスピア倉敷の名称で親しまれているリンクは、以前は「ウェルサンピア倉敷」として知られていた。クラブにとって拠点となっていたリンクの存続危機がクローズアップされたのは、2008年のことだった。
 施設を所有していた年金・健康保険福祉施設整理機構が売却を進めたが、結局入札者は現れず、そのままなら閉鎖されると決まったときだ。


リンク閉鎖の危機に関係者が団結
 岡山県スケート連盟が一時的に借り受けるなどして、その年の秋から09年の4月まで限定的に続けることができるようになったが、その後の見通しは立たないままだった。
 リンクがなくなれば、クラブの存続もまた、困難を極めただろう。存続しても、活動は大幅に制限されることになったろう。

 このとき、選手や保護者ら関係者が団体を結成。各所に働きかけるなどして、存続を訴えた。署名活動も実施し、6月には約8万7000人分の署名を提出した。

 その頃を知る関係者がこう語っていたのを覚えている。
「皆さんの一致団結した熱さ、思いの強さが分かりましたし、とても伝わってきました。いいクラブだなと思いました」

 それでも、容易に見通しは立たずに時間は過ぎていった。
 だが、事態は一変した。09年2月、学校法人加計学園が落札したのだ。そしてリンクの存続は決まった。

 その頃を、佐々木はこう語る。
「たくさんの署名が集まりました。高橋大輔君のファンの方々も来てくださり、応援してくださって、あれだけの署名が集まったんだと思いますし、だから存続できたんですね」


「引退するまで倉敷のメンバー」



存続問題に揺れる間、08年3月にはチャリティーショーが行われた。10月の一時的な営業再開イベントがあった。その二度にわたり、高橋が駆けつけ、存続へのアピールを行っていたのだ。

「困ったとき、必要なときは、忙しい中でも、必ず帰ってきてくれるんですよ」
 佐々木は笑顔を見せる。

 高橋にとって、生まれ育ったリンクだ。愛着もある。また、高橋の人柄もあっての協力ではあった。
 同時に、クラブの、生徒を大切にしようという姿勢も大きかったのではないか。

 実は高橋は、昨年の引退まで、倉敷を離れてなお、クラブの一員だった。
 クラブの運営にあたって、佐々木には一貫した方針があった。

「どんな子でも安心して練習できる場所であること」

 そのために、さまざまなクラスを設けている。

「選手を目指す子、文武両道を目指す子、目的もさまざまですし、受験のときは休みたい子もいます。ですから、クラブの中にはSクラスとかFSクラスとかクラス分けがあります。どういう形でもクラスの中に在籍して、自分のレベルに合わせて安心して練習できるようにしています」

 また、倉敷では練習していない選手のためのクラスもある。

「SSというクラスがあるんです。特別な事情があって、普段はよそで練習していて、たまに帰ってくる、というような子のクラスです。大輔君もつい最近までそのクラスでしたし、平井絵己さんも名簿に名前があります。引退するまで倉敷のメンバーなんです」



リンクが本当の意味で倉敷の財産にならないと



そこには、かかわった子供たちをずっと大切にしていこうという姿勢がある。それもまた、高橋が困ったときには駆けつける要因の1つかもしれない。

 そしてクラブは、「1人で充実した組織にはならない」という佐々木の思いから、運営に誰もがかかわる方針を貫いてきた。保護者をリンクから遠ざけるのではなく、より近いところにいられるようにするのも同じスタンスからだ。

 存続をめぐる危機のとき、結束をもって取り組み、危機を乗り越えることができたのも、そうしたクラブのスタンスがあればこそだった。

 今、佐々木は言う。

「夢の1つであったリンクが通年化して、新しいステージに進んだと思います。リンクをどういうふうに子供たちが、町の人や地域の人が使って、愛されるリンクになり町の財産として残っていくか。なおかつその中で、選手の育成をまた手探りで進めていきたいですね。

 今までは、いろいろなところに練習に出かけたりしなければならないハンディをばねにしながらやってきたところもありました。通年化した以上は、ここでどうやって踏ん張るのかを新たに付け加えて考えていかないといけない。リンクが本当の意味で倉敷の財産になっていかないといけない。みんなで考えて実現したいですね」

 フィギュアスケートを取り巻く環境は、変化してきた。かつては考えられなかったような脚光を浴びるのだ現在だ。しかし、変化がどうあろうと、その中にあって、佐々木は倉敷の地でこつこつと子供たちにスケートを教え続けてきた。

 1人ひとりの子が、少しでも成長すればそれがうれしい。進化するさまを見るのが楽しい。その気持ちに今も変わりはない。クラブの根本のあり方もまた、変わらない。そして選手たちは巣立っていった。

 そして今日も、明日を夢見る子どもたちがリンクで滑っている。