大地と空のあいだを楽しむワークショップ
8月14日、お盆
香美町にある再生はじめた古民家で行ったワークショップは、不思議なぐらいお盆にぴったりのワークとなりました。
前回来た時、しばらくのあいだ人間がいない時間がここに流れたんだなーという感覚を感じ、その時にこのワークの企画があがり、あれよあれよと言う間に開催。
しかも神戸から3時間以上離れている場所で、しかも家族や家行事に忙しいお盆に!笑
何も疑問ももたずにスラスラと進んでいくなんてびっくり! でも蓋をあけてみれば、私達一人一人と、そしてこの古民家にとっても本当に大事で大切な気づきや心休めがあり、濃いご縁の日になったようでした。
誰とコンタクトをとるにも、「自分」がないと、「自分」から始まらないと、誰とコンタクトをとってみてもフワフワして、いつのまにか自分がなくなってしまう・・・というような、受動的な世界にこもってしまう。
何にも自分から決める事ができなくて消極的になったり、自分のもった感情をいつも消そうとしたり、そうして出来ていく受動的な世界では誰かが答えを出してくれることを待つ、その答えを自分の答えとして受け入れてしまう。
もちろんその「自分」だと思っているものも、「え、本当に自分が思った?感じた?」と疑え!・・・とは、私が以前しこたま絞られた、いや打ちのめされた古武道の恩師のお言葉。言葉って言うのは、本当にこれこそ疑うべきもので、言葉になればなるほど細分化されているように感じるけど、その言葉を使う本人の感じたその言葉の感じ方と、聴いた側のその言葉の感じ方は違う。
そう、「違う」とまず思って聞く。
「温かい」といっても、感じた相手と自分の体感する「温かい」は違う。「素晴らしい」の中身はなんなのか、言葉の中身こそが「自分」なのだと。言葉はコミュニケーションの一つではあるけれど、「答え」ではない。
「きっかけ」
相手を知るきっかけ。
そして自分を相手に伝えるきっかけ。
日本語は48文字あって、その組み合わせで単語や接続語で文章が組み立てられるけど、いい方とかも含めて、本人の土壌で育ったものとのやりとりであって、本来あるその言葉の意味が意味そのままストレートに届くのは、素晴らしく難しかったりする。
そのまま伝えるために、そのままを受け取るために、何が必要なのか。
そうではない。互いに能動的であり客観的である部分を自分自身の中にもつことが、それぞれの側にその日の授かり物をおろしてくる。
それは家族だったり、社会だったり、自然だったり。
その時代時代生きてきた人は、それがどんな風に表面化されたかはおいといて、大半の人が誰かのことを思って選択し生きてきた。
その過去の中には、現在の位置から見れば後悔するものも多い。
でもその時代があったからこそ、今「選ぶこと」ができる時代となった。
その「選ぶ」という行為をするためには、誰のため、の前に
「自分がどう感じているか」
それを自分が知るという工程を外してはいけないし、この工程を何をする時にも外してはいけない。
その時その時のその人それぞれの生きてきた流れがあって、
「自分を疑う」がその人の「自分」を呼び覚ます言葉になるのか、
「自分を信じろ」がその言葉になるのかも変わる。
だから皆違うのだ。
違う。
そのことを温かく迎え入れ、自分をひとつひとつ知り、そして周りとコンタクトをとる。
ええええええええ! それがあんなワークになるのー!
って。
参加してくれた皆の声が聞こえそう 笑
そう。言葉でではなく、そこに集まったものにふんだんに参加してもらうワーク。
滝でもあり、景色、そしていろんな声、それらを含む「時間」である。