齋藤孝氏の心に響く言葉より…

 

 

 昔の人は、当たり前のように、学ぶことを中心に人生を作り上げていました。

 

とくに江戸時代はそうで、それは、政治や教育の理念として儒教があったためです。 

 

そもそも『論語』が日本に導入されたのは、古くて聖徳太子の「十七条憲法」の第一条にある「和を以って貴しと爲し...............」は『論語』の言葉が元になっています。

 

 

江戸時代に儒教が普及して、寺子屋では「実語教」や「童子教」といった本を教科書として使用し、これらの本には儒教を柱とする人間の生き方が説かれていました。 

 

『論語』は、「学びて時に之を習ふ、亦説(またよろこ)ばしからず乎(や)」という言葉で始まるように、学ぶことを基本にした道徳です。

 

孔子が、学び続けることの大切さを説き続けたものですから、江戸時代の日本人はそれを素直に受け取り、それが常識になって、日本人の学び好きの素地ができたわけです。

 

 

もちろん、江戸時代より前から学ぶことが好きな国民性ではあったかも知れませんが、江戸時代は寺子屋や藩校があり、人々は幼い頃から、そうした場所で『論語』を素読し、暗唱していたので、なおさら学び好きになりました。

 

誰かが 「吾(われ)十有五にして...............」と口にすれば、誰もが「学に志す」と続きがいえたほど、儒教の教えが浸透していたのです。 

 

「学に志す」が人生のスタートであり、生涯の軸になる。江戸時代の子どもたちは、そう学んだのでした。

 

 

 

《孔子は「学びを主軸にした 人生を送れ」と説く》 

 

 

齋藤孝式“学ぶ”ための教科書~必要な「思考力」「判断力」「表現力」が身につく!~』辰巳出版

齋藤孝式“学ぶ”ための教科書~必要な「思考力」「判断力」「表現力」が身につく!~

 

 

 

 

 

 

 

本書に「孔子の考え方」という文章が紹介されている。

 

 

『子曰(しいわ)く、 「学びて時に之を習う、亦説(またよろこ)ばしからず乎」 

 

《現代語訳》 先生がいわれた。「学び続けて、常に復習する。そうすれば知識が身につき、いつでも活用できる。実にうれしいことではないか」 

 

 

「学んで、復習して、活用することは、すごく楽しいことじゃないか」というわけですから、もしも「人生の楽しみとは何か」と問われたなら、孔子なら「学ぶことだ」と答えるでしょう。

 

何のために学ぶのかという以前に、学ぶこと自体が楽しい。

 

そんな孔子の考え方が、とくに江戸時代は日本人の常識になっていたということです。』《学而(がくじ)第一 1》

 

 

大人になってからの学びは楽しい、と感じる人は多い。

 

子供の頃や学生の頃の学びは、楽しい思い出などあまりなかったのに…。

 

若い頃の学びの多くは、記憶が中心で、半ば強制されてやるものだった。

 

 

しかし、大人になってからの学びは内発的なものだ。

 

いわば、探求的なもの、と言ってもいい。

 

 

誰かから強制されてやるものではない学びこそ楽しいものはない。

 

自らの興味や好奇心のおもむくままに学ぶからだ。

 

だからこそ、昨今の子供たちの学校での学習法が「探求的」なものに劇的にシフトした。

 

 

人生100年の時代、といわれる今。

 

60歳や65歳という定年を過ぎてからの人生は、昔と比べて圧倒的に長い。

 

定年後、20年も30年も何もせずに生きていくほど、つまらない人生はない。

 

だからこそ、学びが必要なのだが、しかし、学ぶ習慣は一朝一夕にはできない。

 

40代、50代の頃から学びの習慣を身につけないと、それは60代になってからあわててもすぐには難しい。

 

 

江戸時代のように…

 

今こそ、学ぶことを中心に人生を作り上げたい。

 

 

 

 

齋藤孝式“学ぶ”ための教科書~必要な「思考力」「判断力」「表現力」が身につく!~