明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…

 

 

私は道徳の第一原理は、「己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」だと思います。

 

「自分がやられて嫌なことは人にするな」、これが道徳の基本です。

 

 

この言葉について、『論語』では先生である孔子と弟子との間の次のようなやり取りが紹介されています。

 

弟子が孔子に質問しました。

 

「先生が一生を懸けて行うこと、目標としていることを、一言でいうと何になりますか?」

 

そうすると孔子は答えました。

 

「恕(じょ)かね」

 

「恕」というのは、「寛容さ」とか「許す」とか「心の広さ」といった意味の言葉です。

 

孔子は続けて言いました。

 

 

「つまりは己の欲せざる所、人に施すこと勿れだね」

 

それを聞いた弟子は、

 

「ああ、そういうことですか」

 

と言いました。しかし孔子は答えたのです。

 

「いや、でもね、おまえなどには一生かけても、なかなかできることではないよ」

 

 

この「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」という言葉は、小学一年生でも分かるようです。

 

この言葉を拙著『声に出して読みたい日本語』に入れたところ、この本を授業で使ってくれている小学校の先生が教えてくれたのですが、子どもたちはこの言葉が一番好きだと言ったということです。

 

小学1年生でも、「自分がやられて嫌なことは、人にしてはいけないよ」というのはすぐに分かる。

 

これが道徳の基本なのです。

 

 

人間が社会生活を営んでいく上で、時には意見や利害の対立が起きることがあります。

 

そのような時に、最低限、人々の生命や財産、人権などが侵された場合のことを想定して、法というものが定められています。

 

ですが、法を侵さなければ自由に振る舞っていいのかというと、そういうわけにはいきません。

 

人々の権利同士がぶるかり合う状態になってしまうと、人間関係がギシギシしてしまう。

 

でも、法の外側にクッションがあれば、権利同士がぶつからない、あるいはぶつかっても衝撃を吸収できるのです。

 

そのクッションの役目を果たしているのが、道徳なわけです。

 

 

例えば、人から何か嫌なことを言われた。

 

じゃあ、その相手を訴えるか。

 

それはできない。

 

だけど、自分がされて嫌なことは、人に言うのはやめよう。

 

 

そういうふうにして、みんなが「自分にされて嫌なことは、人にするのをよそう」と思えば、人間関係に道徳のクッションができます。

 

そういうクッションがたっぷりある社会は、個々人の権利と権利がぶつからず、人間関係がギスギスしない。

 

それが暮らしやすい社会ということになるのです。

 

 

大人の道徳 (扶桑社新書)

 

 

 

 

 

自分がされて嫌なことを平気でする人がいる。

 

「自己中心的」だったり、「自分の非を認めない」、「共感しない」、「良心が欠如している」、「人と親しい関係を築けない」、「無表情」、「冷淡」、「反社会的」、「嘘をつくことに抵抗がない」、「周りをコントロールしようとする」等々。

 

昨今は、これらを総称して「サイコパス」(反社会性パーソナリティー障害)などという。

 

 

「恕」とは思いやりのこと。

 

思いやりがある人は、他人の立場に立つことができる。

 

他人の痛みや苦しみ、喜びを、自分のことのように感じることができる。

 

 

「冷たい言葉」、「冷たい表情」、「不機嫌」、「無視」…

 

自分がされて嫌なことは、他人にもしない人でありたい。

 

 

 

 
 
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