7月4日に投稿したなう | 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

 殺人未遂事件として木梨松嗣弁護士、長谷川紘之弁護士を金沢地方検察庁に刑事告訴手続き中 (さらば弁護士鉄道\泥棒神社の物語)

 市場急配センター(石川県金沢市)の組織犯罪と加担、隠蔽をした弁護士らの物語(事実)。



時刻は23時42分になっています。朝起きるのが早かったためか久しぶりに長い一日だと感じています。夕方には姫の高倉漁港にアジ釣りに行ってきました。夕方の遅い時間から雨が本降りになり、ずぶ濡れになりました。
7/4 0:04

さきほど思い出したことですが、平成4年3月30日と思われる午後、古河の市場の電話ボックスから電話を掛けた時、被害者AAさんは、なかばやけを起こしたような、抗議の気持ちを全面に打ち出すような態度で、私の問いかけに対して、すべて「はい、はい」と答えていました。
7/4 0:24

時刻は7月4日6時55分になっています。たまたま早く目が覚めたのですが、天気もすっきりしません。インターネットの天気予報を見ると今日の15時ころに強い雨が降りそうです。
7/4 7:18

事件との直接のつながりは見えないものの、今後の対応を含め地域社会的にも影響の想定される人物の関係者なので、正確な情報データとして、実名にしておくことも検討したのですが、仮名にしておこうと思いました。
7/4 7:38

その人物とは堂野さんのことです。現在市場急配センター株式会社の社長になっている可能性のある人物ですが、同一人という確認はしておりません。軽く9割以上の確率で、普通に考えて同一人の可能性は高いと考えますし、そういう前提でも取り組んでいきたいと思います。
7/4 7:38

まず堂野さん自身ですが、平成10年11月20頃の時点で、自ら市場急配センターの労務の担当者として、私の事件や裁判について話を聞く必要があると言っていました。被告訴人松平日出男を交えて3人で会見をした時のことです。
7/4 7:38

次のようにcalコマンドで確認したところ、22日が日曜日なのでその日だった可能性が高いと思います。→ % cal 11 1998
7/4 7:38

堂野さんは平成15年以降においても、被告訴人安田敏との接触がうかがえました。それは被告訴人安田敏との会話から出てきた話でしたが、私がインターネットで市場急配センターを舞台にした事件について情報を公開していることについて、名誉毀損で訴えることもできる、と言っていたそうです。
7/4 7:38

私は平成4年と平成11年の2回、金沢刑務所の拘置所に入りましたが、平成12年の11月頃から平成13年12月31日の満期出所までは、金沢刑務所で受刑もしています。思えば金沢刑務所での受刑中は、母親の面会も一度もなかったと思います。足が悪くなったとは聞いていました。
7/4 7:59

北九州市など大きな規模の都市になると刑務所と拘置所は別の施設になるらしいのですが、金沢のような地方都市では刑務所の中に拘置所がありました。刑務官というか職員もほぼ同じだったと思います。たぶん面会室も同じだと思います。
7/4 7:59

平成4年6月30日の金沢地方裁判所での公判の時だったと思いますが、絶望視していた被害者AAさんの意識が戻ったと、公判の初めに江村正之検察官から説明がありました。それで一転して気を取り直し、事件に至った経過について深く考えるようになりました。
7/4 7:59

それまでは拘置所の独房にいても、こぼれ落ちる砂のように思考の像がまとまらない状態でした。
7/4 7:59

それは予想を超えた形勢の逆転にもなっていたようです。
7/4 7:59

当然ですが拘置所というのは人の出入りがあります。土日祭日の免業日の決まった時間帯にはラジオ放送も流れますが、平日の日中というのは昼食後の短い時間のラジオ放送だけだったと思います。
7/4 8:19

たまに草刈機の音がうるさく聞こえますが、ほとんどは静かな状況なので、新規に独房に入る人に刑務官が説明をする声も聞こえることが何度かありましたが、私のように大声を出すなとか言われているのは、聞くこともなかったと思います。
7/4 8:19

被告訴人松平日出男の面会ですが、金沢西警察署では4,5回あったと記憶しています。少なくとも4月中に2回、5月中に2回はあったと思います。
7/4 8:20

同じ金沢西警察署の留置場での生活でしたが、4月と5月ではかなり違いもありました。当時は理解していなかったことですが、起訴後には取り調べがほとんどなくなっていました。ある日を境にぴたりと取り調べの呼び出しがなくなったので、変だとは思っていました。
7/4 8:20

5月の前半だったと思っているのですが、被告訴人松平日出男が被告訴人浜口卓也を連れて二人で面会に来たことがありました。被告訴人松平日出男は私からの問い掛けの機会を減らすために、被告訴人浜口卓也を連れてきたという感じに見え、安堵の表情がうかがえました。
7/4 8:20

被告訴人浜口卓也がしみじみと「ヤマにあがるんやな」と口にしたのが印象的でしたが、どうも金沢の暴力団の世界では、金沢刑務所や拘置所のことを、ヤマというようです。地理的には富山県との県境の山間部にも近いとは思いますが、山という意識はなかったです。
7/4 8:40

金沢刑務所といえば、田上として知られていました。だいたい場所は人から聞いていて、近くまでは市内配達の仕事でも行くこともあったのですが、実際にその前まで行ったのは、中に入る時が初めてでした。
7/4 9:04

片町の飲み屋とも聞いたように思いますが、見知らぬ相手とケンカになり、頭蓋骨骨折の怪我を負わせたという話でした。それで警察の留置場に入ったとも聞きましたが、10日間入っていたとも聞いたので、当時は知らないことでしたが勾留延長はなかったものと考えられます。
7/4 9:25

罰金刑になったともその後で聞いたように思いますが、その後もしばらくの間、被告訴人浜口卓也本人に会う機会はなかったので、直接その話を聴くことはなかったと思います。
7/4 9:25

金沢市場輸送の運転手でも、輪島のMYやYAは、被告訴人浜口卓也のことをよく知っているという感じでしたが、小木港の遠洋漁業で知り合ったという感じでした。新保のKOも同じく知っているようでしたが、嫌いというだけではなく何か個人的に恨みつらみがあるようにも感じる話しぶりでした。
7/4 9:25

基本的に金沢市場輸送と市場急配センターの運転手の接点というのはほとんどなかったと思います。強いて考えると、橋渡しのような話題を持ってきた人物として当てはまりそうなのは、被告訴人松平日出男ぐらいかと思います。
7/4 9:25

そういえば輪島のMYも金沢市場輸送で麻雀をやっていたことがありました。ここで書いておく必要を感じながら、機会を逸したうえ忘れていたことを思い出すことが出来ました。形式にこだわり後回しにしていると忘れたまま終わっていたかもしれません。思い出すこともなく。
7/4 9:25

無口なタイプで会話をしている姿も見かけなかったので、それだけ目立たない存在でもあったのですが、確か大型の平ボディ車に乗務しているような姿は、別に見ることもあったように記憶に残っています。
7/4 9:45

見かけない顔でしたがMTと並んで麻雀をし、年格好も似ていたので、友達を連れてきているような雰囲気は感じていました。たぶんになりますが、輪島のYAから聞いたのだと思いますが、その名前を聞いた時は驚きました。
7/4 9:45

その場には神野のKMがいたと思います。その溜まり場には被告訴人安田敏と3回ぐらいは行っていたと思いますが、KMが一緒だったのはたぶん一回だけだったと思います。その場にKMがいなければ、聞き流し、なんの話か知ることもなかったと思います。
7/4 9:45

昭和58年の秋に聞いていた名前でした。◯田という名前で◯の中の感じは、たぶん小学校の低学年で習う誰でも知っている馴染みのある漢字ですが、その一文字の漢字自体、名前に使われることは少ないと思いますし、◯田という名前は後にも先にも他に聞いたことのない名前なので、印象的でした。
7/4 9:45

すでに何度か説明を書いているはずですが、場所は藤江の陸橋近くの輪島の暴走族の溜まり場でした。そこには被告訴人安田敏と一緒に何度か行きましたが、常に10人以上の若者は集まっているような溜まり場でした。
7/4 9:45

何人かに分かれて思い思いの会話をするような助右喬でもあったのですが、半分はたまたま耳に入ってきた話でした。その場にいた一人が輪島の○田という男に何か詐欺の被害にあったような話をして不満と焦りをぶちまけていたのです。本人にすれば相当深刻な被害という漢字でした。
7/4 9:46

彼は中学校の同級生でしたが、中学生の頃の彼はテニス部の部活にも熱心な様子で、クラスも一緒になった憶えもないので、中学校の頃の付き合いというのはほとんどなかったと思います。なお、当時の能都中学校のテニス部というのは全国大会で優勝することもあるような実力でした。
7/4 10:06

KMとの付き合いが多くなったのも高校に入ってからだと思います。35年近くも前の話になるので、細かいことは思い出せないですが、宇出津の城野町のHSのところで会うことが多かったと記憶しています。
7/4 10:06

当時私は石川県立水産高校小木分校に通っていましたが、神野のKMは柳田農業高校に行っていました。能登では他に聞いたこともなかったのですが、全寮制の高校だと聞いていました。休日以外には会う機会もなかったと考えられますが、その割には一緒に遊ぶ機会も多かったように記憶にあります。
7/4 10:06

彼も学校の勉強より、遊ぶことを優先する遊び仲間でしたが、彼も私が被告訴人大網周一とともに小立野の金沢少年鑑別所に入っている間かその前後に、高校を退学したはずです。城野町のHSも前に書いたHMも同じ頃に水産高校の本校を自主退学しています。
7/4 10:06

被告訴人大網健二も同じ頃でしたが、彼の場合は8月28日のシンナーの事件で、金沢高校を一発退学になったと聞いたように記憶しています。金沢高校をやめたことで被告訴人大網健二は宇出津に戻り、宇出津を中心に生活するようになりました。
7/4 10:06

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いが始まったのも、私が鑑別所に入っている間であったと思います。KM自身がHMらと金沢に遊びに行っていたことを話していました。七塚のMKや東金沢のMSらがいたらしい溜まり場です。
7/4 10:27

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは、城野町のHSや私を介したものが多かったと思います。もともと気が合わない関係というか、根本には被告訴人大網健二の差別意識があったものと考えられます。
7/4 10:27

それは被告訴人大網健二や被告訴人大網周一に限った話ではなく、私が子供の頃にはまだ割と強く残っていた風習にも近いものなのですが、宇出津には近隣の農村部の地域や農家を「ザイゴ」と呼んで蔑視する傾向がありました。
7/4 10:27

具体的な対象としてわかりやすかったのは柳田村や神野です。神野と言ってもこれは地区と思われ、地名ではないとも考えられるので地図を見てもわからないかもしれません。姫や真脇を高蔵地区と呼ぶのに似ているとも考えられます。
7/4 10:28

具体的には宇加塚、藤ノ瀬、鶴町、曽又等の集落の総称として神野と呼ばれていたかと思いますが、神野小学校というのもありました。同級生でもほとんど例外がないぐらい家が農家だと聞いていました。現在でもほとんどが田んぼのような風景です。
7/4 10:28

地図をみると宇出津のすぐ近くに見えるかと思います。宇出津と輪島市内も地図を見ると近くに見えますし、距離的にもさほど離れていないはずですが、子供の頃の感覚が抜けないのか、全国を走った長距離運転手の経験もあるものの、未だに輪島というのは遠いところという感覚があります。
7/4 10:48

神野は地理的に柳田村にも近いですが、買い物などはほとんど宇出津に来ているものと考えられます。柳田村となると地理的に輪島市により近いということもありますが、それだけに輪島の方との交流も多いとは聞いたことがあります。
7/4 10:48

輪島市でも町野という辺りは、風景も町並みも柳田村に似ていたので、生活スタイルを含め、湊町の宇出津よりは共通する部分も多いのかと考えられます。その辺りは個々人の性格や習慣などにも現れている部分はあるかと思います。
7/4 10:48

その一つの括り方が「ザイゴ」という差別意識にもつながっていたのかもしれません。私自身、母方が京都の親戚なのと、宇出津の父方の親戚との付き合いも中学生になった頃にはほとんどなくなっていたので、同じ宇出津でも感覚が根本で異なっているのかもしれません。
7/4 10:48

被告訴人大網健二や被告訴人大網周一の場合は、宇出津の中心部に住んでいたので、なおさらその傾向や意識が強かったのかと考えられますが、そういう傾向は同じ世代では珍しいぐらい、残っていたと思います。
7/4 10:48

二人だけの関係で考えれば何でもない話なのですが、結婚した妻同士がとても仲の良い関係だったので、その辺りはどうなのかなと考えるところがあります。前に書いていると思いますが、被告訴人大網健二の結婚式にもKMの妻は出席していました。
7/4 11:09

学年としては私の2つ年下になるのですが、上の世代や下の世代のことを考えても、とりわけて仲が良いというか、結びつきの強さを感じさせる関係がありました。
7/4 11:09

神野のKMは柳田農業高校に行っている当時にも、多少輪島の方と付き合いがあったようです。輪島の方から来ている同級生がいるような話もしていたかと思います。地理的に近い分だけ、輪島に対する関心や親近感も強かったのかもしれません。
7/4 11:09

現在は廃校になっているのかと思いますが、輪島には町野高校がありました。町野の町は柳田村との境にも近いですが、町野高校はその町野の町からは離れていて、海に近く、観光地でもある曽々木海岸の側にありました。建物は現在でもそのまま残っていると思います。
7/4 11:09

町野自体が輪島市でしたが、それよりはいくぶん近い輪島高校の辺りも、輪島の中心部からはけっこう離れていました。宇出津から柳田村を通って輪島市に向かうのに、海岸線の国道にぶつかったところが曽々木で、左に行くと輪島市内、右に行くと珠洲市です。
7/4 11:09

私の同級生でも町野高校に行ったのは一人だけだと聞いていました。極端に大人しく無口な生徒だったのでなぜ町野高校を選んだのか話を聞くこともありませんでした。
7/4 11:29

私の一つ上の学年でも男子が一人、町野高校に行ったのですが、その話を聞いた時は、なぜ誰もいかないような遠い高校を選んだのかと不思議に思いました。TUという名前でしたが、割とよく一緒に遊んだ時期もありました。
7/4 11:29

私が能都中学校の相撲部に入部するきっかけにもなったHMを介した付き合いがあったのです。二人は同級生にもなります。TUもその頃は近所に住んでいましたが、まもなく宇出津の錦町の方に引っ越して行きました。
7/4 11:29

HMとは私がちょうど辺田の浜から宇出津の小棚木という町内に引っ越してきた頃に、たまたま赤灯台の海岸で知り合い、仲良くなりました。引っ越してきたのが小学校5年の春で、出会ったのが夏であったと思います。
7/4 11:29

彼もわりと最近に金沢市から転校してきたと話していたように記憶しています。他の宇出津の子どもとは異なる雰囲気もありましたが、なぜか気もあってよく遊ぶ関係になりました。同じ町内でもありましたが、家はそれほど近くはなかったです。
7/4 11:30

当時は宇出津の町内で大棚木が一番大きく、小棚木が二番めに大きいと聞くこともありましたが、その後、大棚木でも遠島山公園に近い部分は、城山という町内として独立したという話を聞いたこともあるので、現在は小棚木が一番大きく広いのかもしれません。小さい町内は家が20件とも聞きますので。
7/4 11:50

HMとの付き合いがなくなってからは被告訴人大網周一らの不良グループで目立つ存在にもなっていました。再び付き合いをするようになったのも、昭和56年の秋以降だったと思いますが、HMだけでなくその同級生も以前とは違い被告訴人大網周一とは距離を置くようになっているという感じでした。
7/4 11:50

昭和58年の春頃でしょうか。その頃になるとHMと私の個人的な付き合いというのもはとんどなくなっていたように思いますが、金沢市藤江の外れにあったHMの借家にもちょくちょく遊びに行く機会は昭和57年の頃からあったと思います。それも神野のKMと一緒が多かったとも思います。
7/4 11:50

それには別にはっきりした理由もあって私は昭和57年の6月に1年間の免許取り消しになっていました。たまたまHMを後部席に乗せていた時に78キロのスピードオーバーで捕まり、当時は12点の減点だったと思いますが、他に点数も引かれていたので一発取り消しになりました。
7/4 11:50

バイクも車もなかったので、特に金沢市での行動は他の友人より大幅に制限されていました。同乗で行動することが多かったのもそのためかと思います。
7/4 12:10

同じ昭和58年の春とは言っても、小林運送の長距離助手の仕事もやめたあとで、初夏に近い6月頃の時期だったとも思いますが、畝田のTUのアパートにいることが多かったと記憶しています。
7/4 12:11

金沢市での藤江は北や南があって広かったですが、畝田も西などがあってけっこう範囲が広かったと思います。TUのアパートは畝田でも外れのほうで桂町にも近かったと思います。周りにほとんど店がないのも不便でした。店があってもお金がなかったのか、周囲で買い物をした記憶もほとんどありません。
7/4 12:11

TUのアパートと聞いていましたが、TU本人の姿を見ることは本当に少なかったと記憶にあります。神野のKMが自分のアパートのように使っているという感じでした。TU本人はなにか出張の多い仕事をしていると聞いていました。
7/4 12:11

石川県金沢市畝田中2丁目2 - Google マップ http://t.co/HhR3B0FLZe
7/4 12:11

出張が多かったというTUの仕事ですが、一時期、さきほどのHMや真脇のSも同じ会社で同じ仕事をしていると聞いたことがあったかもしれません。4トン車というトラックの話も聞いたように思いますが、運送会社とは聞かなかったです。
7/4 12:31

なお、これまで昭和58年の秋頃の被告訴人安田敏のアパートのことを観音堂のアパートと書いてきましたが、性格な住所は畝田であった可能性もあるかと思います。金石街道にまたがって畝田は広い町名でした。
7/4 12:31

畝田から金石に近いところに寺中町がありましたが、これは範囲も狭いという感じでした。中西運輸商の事務所の住所はその金沢市寺中町になっていましたが、堂野さんが住んでいると聞いたのも寺中町だったと思います。一度その辺りまで頼まれて車で送り届けたこともありました。
7/4 12:31

言われた場所に車を止めると車から降りていったので、アパートなのか家なのかもわからなかったですが、その辺りに住んでいるという話は他にもしていたように思います。
7/4 12:31

TUは真面目に仕事をしているという感じでしたが、町野高校時代の友だち関係で、輪島の暴走族の集団暴走にも参加することがあるとか、他の同級生も参加したとか神野のKMに話を聞くことがありました。そこには私より一つ年上のHSさんの名前も具体的に出ていたと記憶にあります。
7/4 12:31

輪島の暴走族のリーダー格であったKTですが、戦国武将のような変わった名前だったので未だに名前は憶えています。
7/4 12:52

これもまだ私が内心で予定しながら書いていないと思いますが、鶴来のHとも付き合いというか交流があったと聞きました。何かの話題でKTのことが出てきた時、最近一緒に飲みに行ったという話もしていました。
7/4 12:52

鶴来のHに関しては輪島のMYとも以前からの知り合いで付き合いもあったような感じでした。もう一人鶴来の男を加えた4人で、内灘に海水浴に行ったこともありました。
7/4 12:52

もう一人の鶴来の男はいくつか年下だったと思います。あるいは19歳という少年であったかもしれないです。本書で既に書いていると思いますが、高田が金沢市場輸送の事務所で父親が死んだといきなり伝えた相手です。
7/4 12:52

何の前置きもなく、いきなり父親が死んだと告げたので、まったく心の準備もなく聞いた方もさぞや驚いたのではと思ったのが印象的でした。
7/4 12:52

ずいぶん前のことなので正確に思い出すことは出来ませんが、MYが4トン車に乗務していたのも半年ぐらいであったかもしれません。あるいは1年ぐらいだったかもしれませんが、鶴来のHが会社にいたのも同じぐらいの期間で、いつの間にかいなくなっていたという感じです。
7/4 13:13

山中温泉のキャッスルバーデンホテルでの慰安会にも鶴来のHの姿はあったような気もします。ややこしい名前の温泉ホテルですが、当時のテレビCMでは、山乃湯ともなっていたという記憶もあります。
7/4 13:13

その慰安会には七尾のなんとかの姿もありました。名前を覚えているつもりでしたが、思い出せなくなっているので仮名のイニシャルもつかえません。佐川急便で市内配達をしていたという男で、年は私の1つ年上でした。
7/4 13:13

普段から威勢のよい大きいことも言うような男でしたが、他の宿泊客とケンカになった時、涙を流しながら縮こまっていた姿が印象に残っています。逆に肝が座って堂々とみえたのが、◯西さんの息子と、仲裁のような行動に出た寺川さんでした。
7/4 13:13

既に書いてある部分もあると思っていますが、平成3年春のストライキの時、被告訴人東渡好信らが集まっていたのは、その時仮名にした寺川さんのアパートでした。はっきりした場所はわからなかったですが、同じ頃に被告訴人浜口卓也が住んでいたアパートともかなり近かったと思います。
7/4 13:13

被告訴人浜口卓也のそのアパートに関しては供述調書の住所でも金沢市南新保になっていたと思います。金沢市内には新保という町名もありましたが、金沢西インターにも近いまったく別の場所でした。
7/4 13:33

輪島のMYが初めにYAと輪島崎のOTが紹介で金沢市場輸送に入社させた時に、たまたま出会った場所がその新保あたりのアパートと話していたという記憶もあります。満足にご飯も食べれない状態になっていたので、誘ったとも話していたと思います。
7/4 13:33

OTの方はMYと同級生と聞いていましたが、どちらも私の学年で2つ上と聞いていました。YAの方は私の2つ年下と聞きましたが、YAの兄はMYと同級生と聞きました。北都運輸でその兄とも出会いましたが、体が大きいものの大人しくおっとりした性格という感じでした。
7/4 13:33

さきほど焼きそばを作って食べていたのですが、意外に早く簡単に七尾の男の名前を思い出すことが出来ました。白石だったと思います。全国的にはさほど珍しい名前ではなさそうですが、石川県や私の周辺で同じ名前を聴くことはなかったと思います。
7/4 14:07

白石もいつの間にか、姿を見なくなってやめていったのかという感じでしたが、私の記憶では金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからは姿を見た記憶がないので、山中温泉の慰安会の直後にいなくなっていったのかとも思います。顔の方もなんとなく記憶にありますが、目が細かったという気がします。
7/4 14:28

山中温泉の慰安会は6月の下旬だったと思います。それより少し先の時期になると金沢港のスルメイカや、その前の筍の出荷で忙しく、ほとんどの社員が仕事を休むという調整も困難ではなかったかと思います。
7/4 14:28

はっきりと覚えていることは、まだ西念町に金沢市場輸送の事務所がある頃でした、北國銀行中央市場支店のちょうど前辺りから送迎のマイクロバスに乗り組んだからです。私の妻が忘れ物をもって駆けつけてきたことも場面として記憶に残っています。
7/4 14:28

何を忘れてきたのかも思い出せないのですが、当時妻はまだ車の免許も取得していなかったとも思えるので、どうやって来たのかも不思議です。誰かに頼んで車に乗せてきてもらっていたのかもしれません。
7/4 14:28

山中温泉の慰安会に行ったのは6月として、昭和62年だったのかと考えます。思えば金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも7月の初めころだったという記憶があるのですが、慰安会とは近接していなかったようにも思います。
7/4 14:28

白石ですが前に書いた小林運送のYさんと、石川日通の田村の4人で、車で片町に遊びに行ったこともありました。石川日通の田村は私の一つ年下だったとも思いますが、わりと長い間市内配達の仕事をしていたと思います。
7/4 14:48

家は金沢市内の小立野とも聞いていました。石川日通をやめて正式に金沢市場輸送の社員になったという話を聞いたような気もするのですが、そのうち姿を見なくなり、いつの間にかいなくなっていたという感じでした。
7/4 14:48

はっきりしないところもありますが、私の記憶では二口町に移った金沢市場輸送の事務所で姿を見かけたという記憶は、まったくないではないですがかなり薄くなっています。
7/4 14:48

田村より一つ年下と聞いたかもしれません。大久保という運転手もいました。家が同じく小立野だと聞いたことがあり、田村の後輩なのかと考えたこともありましたが、確認までするようなことはなかったと思います。
7/4 14:49

よくいるような若者でしたが、彼も割と長い間、市内配達の仕事をしていて、彼の姿は二口町に金沢市場輸送の事務所が移ってからの方が、なんとなく印象に残っているのですが、西念の事務所ともまたがっていたものと思います。
7/4 14:49

S藤の泥棒のことに関しては、たぶんまだ書いていないと思います。2,3ヶ月前だと何を書いたかある程度は記憶に残っているのですが、それ以前となるとはっきりとは思い出せません。
7/4 15:09

笹田と峰田というのは顔は余り似ていなかったと思いますが、背格好も似ていていつも一緒にいる二人でした。他の市内配達の運転手とは違って、夕方遅くに休憩室でくつろいでいる姿を何度か見たという印象も残っています。
7/4 15:10

冬に近い時期だと外が暗くなる時間というのも早かったと思いますが、外が暗くなったような時間に市内配達の運転手の姿を見ることも少なかったと思いますし、16時頃の早い時間でも、伝票のようなものをを整理してすぐに帰っていく運転手がほとんどであった思います。
7/4 15:30

何かの割引券のような紙を沢山集めて机に向かっている姿をよくみけていました。伝票らしいものはウェルマートぐらいだったという記憶も残っていますが、それは私自身の市内配達での記憶です。
7/4 15:30

ずいぶん時間を掛けて机に向かうそんな姿も見かけていたので、よほど大変なことをしているのかと思っていたのですが、実際に自分がやるようになると割と単純な作業だったので、なぜそこまで時間がかかっていたのか不思議にも思いました。
7/4 15:30

笹田と峰田とは、顔を合わせれば多少言葉を交わす関係であったと思います。大久保とも似たところがあったと思いますが、彼女を交えた個人的な付き合いもあると、誰かから後になって聞いたこともありました。
7/4 15:30

笹田と峰田は私より6つ年下だったと思います。これは後になってから知ったようにも思いますが、被害者AAさんや被告訴人安田繁克とも同じ年になるものと思われます。
7/4 15:31

時刻は17時04分、歩いて銭湯にも行っていて中断をしていました。
7/4 17:27

まだ、守田水産輸送との共同で青森定期便が始まった頃だったとも思います。金沢の中央市場から秋田、青森の市場に鮮魚を運ぶ定期便は、もともと守田水産輸送がやったいた仕事でした。
7/4 17:47

細かい話は忘れましたが、青森県の下北半島の付け根の方であったか地名は忘れましたが、そこから養殖の帆立貝を積んで九州の方に持って行き、九州で荷物を積んで北陸に帰ってくる仕事が守田水産輸送の大型車では多いと聞いていました。
7/4 17:47

一度出るとけっこう長い運行になるので、月に数回の運行になるとも聞いていました。九州からは鮮魚を積んできたり、時期にはミカンを積んでくるとも来たように思います。
7/4 17:48

ホタテの仕事がどうなったのかは聞かなかったですが、その青森の定期便を金沢市場輸送と一日交代ですることになり、帰り荷として石巻から東北陸運の定期便をすることになったのです。東北陸運と宮城陸上については、これまでに何度か説明を書いていると思います。
7/4 17:48

その守田水産輸送との共同の定期便は1年ほど続いたと記憶にありますが、金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してしばらくすると守田水産輸送との仕事上の関係自体がなくなったので、その辺りから逆算すると昭和62年の9月頃から守田水産輸送との共同の青森定期便が始まったものと考えられます。
7/4 17:48

それは昭和59年に初めに私が入社した頃に始まっていたようにも思います。そして私が金沢市場輸送にいる間は、ずっと続いていたように思います。福岡の魚市場ではフリーとして入って鮮魚を積むことも多かったですが私の場合、北陸ではなく、大阪や東京行きが多かったと思います。
7/4 18:08

ウロコ運送も同じく石巻から東北の定期便をやっていましたが、それは松川運輸の仕事でした。石巻ではかなり大きな運送会社だと聞くこともありました。松川運輸は塩釜港の方にも会社があったと思いますが、ウロコ運送が塩釜の方にも立ち寄っていたかどうかは、記憶もはっきりしません。
7/4 18:08

そのまっちゃんという人との会話の中でたまたま出てきた話なのですが、その人の息子が金沢市場輸送で市内配達をしている笹田や峰田と同級生で友達というような内容でした。どこか場所の話も出ていましたが、それは金沢港の近くであったと思います。
7/4 18:08

いつ頃、誰に聞いたのか現在はっきりと思い出せないところもあるのですが、被害者AAさんはその笹田か峰田の紹介で市場急配センターの事務員になったという話を聞いたことがありました。まだ、私が被害者AAさんのことを余り意識していない時期に聞いたような気もするので、なおさら曖昧です。
7/4 18:08

紹介というのは笹田ではなく峰田として聞いたようにも思います。被告訴人大網健二ともめたのは笹田の方です。二人ともなんとなくは姿や顔を覚えているのですが、いつもいつも一緒にいたので、どこかで記憶が混同している部分のあるかもしれません。
7/4 18:08

かなり久しぶりに姿を見たのは平成3年の夏頃だったと思います。私がまだ市内配達をしていた頃であったと思いますが、だいたい次の場所で会いました。会ったと言っても声も掛けていなかったと思うので、見かけたというのが正確かもしれないです。
7/4 18:29

石川県金沢市長土塀3丁目22-23 - Google マップ http://t.co/6anDYMyFsv
7/4 18:29

改めてGoogleマップを見ると自分の記憶とは一致しないような部分もあるので、場所に余り自信は持てないのですが、中央通りから片町のスクランブル交差点につながる道の方から入ると、ちょっとした商店街のようになっていて、コロッケの売っている肉屋等があったような気がします。
7/4 18:29

それをもう少し先に行くと左の角に「ひまわりチェーン」のような小さいスーパーがあったように思うのです、そこに配達に行くことがあったと思うのですが、稀に行く配達先で、自分の配達範囲なのかも微妙に思える場所でした。
7/4 18:29

道は小路でちょっと複雑になっていたと思いますが、そのスーパーから少し離れた道路にトラックをとめて笹田か峰田が仕事をしていました。その場で声も掛けていないので、その後他の誰かに話をして、聞いたのだと思うのですが、K村さんや姫のNKさんと一緒になって、仕事をしているような話でした。
7/4 18:29

珠洲の大谷のYSさんも、そのうち同じような新車に乗務していたと思いますが、始めてから長い間はかなりポンコツの2トン車に乗務していたと思います。
7/4 18:49

笹田か峰田の2トン車を見たその場所でも、そのYSさんか姫のNKさん、あるいは宇出津のK村さんの姿とトラックを見たような気もするのですが、これも現在記憶がはっきりしません。
7/4 18:49

姫のNKさんと宇出津のK村さんに関しては、ずっと古いトラックに乗っている姿しか見てはいなかったような気がします。被告訴人大網健二が大場町東への引っ越しに借りてきて一緒に返しに行った2トン車も、青色か紺色のそんなトラックでした。
7/4 18:49

笹田か峰田と書きましたが、その二人が一緒にいて、二人を同時に見たという可能性もあると思います。とにかくその二人は、いつもセットのように一緒にいる姿を見ていたという印象が残っています。
7/4 18:50

特別な仲良しという感じで女の子では金沢でよく見かける関係でしたが、男となると他に思い出すことも出来ない気がします。
7/4 18:50

峰田に最後に会ったのは平成3年の年末のことでしたが、その時は笹田の姿がなかったようにも記憶にあります。名前も知らないし言葉を交わした記憶もないけれど、以前は金沢市場輸送の市内配達としてよく見かけていた小柄な若者の姿は記憶にあります。ずいぶん久しぶりに見たという気がしました。
7/4 19:10

それは前に少し書いていると思いますが、偶然とは思えない成り行きで、被告訴人多田敏明と西口の二人が率先して、被告訴人浜口卓也の自宅アパートに行き、それから焼肉店に行った時のことでした。名前は聞いたことのあるような人気という感じの焼肉店でした。
7/4 19:10

以前に作成したGoogleマップのマイプレイスがあったと思います。マイプレイスになる前の旧サービスの時に、作成したものであったかもしれません。
7/4 19:10

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://t.co/qtbqlmJbf3
7/4 19:10

思いの外早く探し出せましたが、現在余り使っていないGoogleアカウントとして作成した地図です。ここに「諸江の焼肉店」とラベルがあるのが、その場所です。6,7人と説明にあったので、すっかり忘れていたことですが、役立つ情報になりました。
7/4 19:10