7月3日に投稿したなう | 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

 殺人未遂事件として木梨松嗣弁護士、長谷川紘之弁護士を金沢地方検察庁に刑事告訴手続き中 (さらば弁護士鉄道\泥棒神社の物語)

 市場急配センター(石川県金沢市)の組織犯罪と加担、隠蔽をした弁護士らの物語(事実)。



時刻は7月3日5時59分です。数日ぶりの記述の再開になると思いますが、今日は用事があって朝5時に起きました。昨日はとてもよい天気だったのですが、今日は朝からどんよりとして梅雨らしいすっきりしない天気です。
7/3 6:02

この項目で書き上げておきたいと思いながら、思い出せなくなったことがあるようで、そのあたりもすっきりしないのですが、書いているうちに思い出すこともあるかと思います。関連した事実や問題の説明に移ると、元の対象の場所にもどるのが難しくなることがあります。
7/3 6:22

町内のキリコの組み立ての手伝いに行っていました。たぶん初めてのことかと思います。
7/3 7:42

この項目ですが、主に木村さん、中野さん、河野秀美さん、和田君、山下強について説明を交え事実関係を書いてきたかと思います。河野秀美さんと山下強に関しては、まだ書くことを予定しています。
7/3 8:03

河野秀美さんに関して重要なことは平成4年2月1日の夜、市場急配センターの休憩室にいたかいなかったかということもあるのですが、現在の私の記憶でははっきり思い出すことが出来ません。仮にいたとすれば、それ自体、かなり珍しいことかと思います。
7/3 8:03

2月1日の夜のことに関しては、被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克がメインになるので、そちらの項目で書こうと思います。二人が供述調書において決定的に事実とはことなる内容を具体的に述べているところであり、彼らの計画性と共謀共同正犯の関係を強く推認させる問題点でもあります。
7/3 8:03

そういえば山下強がトラックに乗務中のケンカで路上に頭を打ち、被告訴人安田敏が代わりに愛知県の豊橋に走ったという話を書きましたが、説明に不十分なところがあったかと思います。
7/3 8:03

まあ、何を書いたところで20年以上も前、岡田進弁護士が完全形式的に無視し、木梨松嗣弁護士が実質握りつぶしたような事実なので、検察、警察が動かない限り、陽の目を見ることはないかとも思っていますが、その必要性を社会に訴える告発という意義も大きいです。
7/3 8:03

内灘町も河北郡で割と大きくて地元では誰もが知っている場所ですが、海水浴場もあって海に近いです。現在は無料化に伴い名称も「のと里山海道」とかに変更になりましたが、能登有料道路の内灘料金所もありました。
7/3 8:23

私は2009年の1月以来、一度も金沢市近郊には行っていないので、道路事情も変わっているかと思いますが、金沢市では北陸道という高速道路で金沢西インターと金沢東インターがあって、ちょうどその2つのインターの間は、北陸道の下に国道8号線バイパスが通っていました。
7/3 8:23

金沢から国道8号線で富山方面に向かうと、金沢東インターを過ぎてすぐ、バイパスは左方向へ、北陸道はそのまま直進して山間部の方向へと枝分かれしていました。さすがにこれは現在も同じかと思いますが、山側環状という新しい動労もできているので、以前ほど主要な道路ではないかもしれないです。
7/3 8:23

正確なことは地図を見て確認する必要があるのですが、枝分かれして8号線を少し走ったあたりは、金沢市福久という地名だという意識が強いです。他にも町内や地名はあるのだと思いますが、その辺りの大体の場所を指す会話でも、福久ということが多いかと思います。
7/3 8:23

富山方面というか津幡の方向から国道8号線を走ってくると、福久をこえてすぐ北陸道と交わるあたりで右にカーブしているかと思います。被告訴人安田敏の簡単な説明でしたが、山下強が頭に怪我をしたというのは、その辺だと聞きました。
7/3 8:24

また一つ思い出したことがありました、説明が途切れた部分の一つです。それは被害者AAさんの両親の供述調書のことです。現在、私が手元にある情報として確認しているのは父親の告訴調書ぐらいでしょうか。添付資料として写真も用意されているかと思います。
7/3 9:32

中野さんと被害者AAさんがメガネの件ですが、事件の5日ほど前のことであったと思います。他にもっと気になることや、重要と考えていたことがあったので、中野さんとメガネことはさほど意識しておらず重要な事実とも考えていなかったと思うのですが、それでも直近に近いので取り調べでも話したかと。
7/3 9:52

なお、被害者AAさんの母親の供述調書というのは、金沢西警察署ではなく金沢地方検察庁が作成したものであったようにも思います。
7/3 9:53

私の知る範囲、被害者AAさんの両親と被疑者である私自身の供述調書以外に金沢地方検察庁が作成した供述調書というのは存在しなかったと記憶にあります。社長であった被告訴人松平日出男ですらなかったと思いますが、その松平日出男だけが例外で期日を別にして2通の供述調書が作成されていました。
7/3 9:53

私自身、割と最近になって気がついたことですが、金沢地方検察庁というか江村正之検察官が裁判所に証拠として提出したと考えられる供述調書というのは、日付にむらというか偏りがあって、金沢地方裁判所に提出されなかった供述調書の存在がうかがえます。
7/3 9:53

これは本書において、前にも指摘した箇所があるかもしれません。その記憶にも自身が持てないので確実なものにしておくため、改めて指摘と掲載をしておきたいと思います。
7/3 9:53

2014-07-03-093430_% ls -d -1 *乙号供述調書*.jpg http://t.co/dMtcFnm8Zb
7/3 10:13

端末というのはターミナルとも言いますが、文字ベースのコマンドを使ってパソコンに処理をさせたり、操作するものです。普通にWindowsパソコンを使っていると見ることもないと思いますが、Windowsにもコマンドプロンプトという似たようなものはあります。
7/3 10:13

パソコンといえばビジュアルな画面で主にマウスを使って操作するものという認識が主流かと思いますが、Linuxでは文字ベースの捜査が多いですし、慣れるととても便利なので手放せなくもなっています。
7/3 10:13

lsというのはファイルやディレクトリを表示させるコマンドですが、-dというオプションでディレクトリのみに絞りをかけています。見やすく縦一列に表示させるため-1というオプションもつけています。
7/3 10:13

実際は半角ですが*の記号は、全ての文字に当てはまるものです。正規表現だと直前の文字の0回または1回以上の繰り返しというパターンになるかと思いますが、これは正規表現ではなくワイルドカードなので、Windowsパソコンの検索に使う記号と同じ意味かと思います。
7/3 10:13

H04-04-09_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-13_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-15_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-18_乙号供述調書_金沢西警察署
7/3 10:34

これとは別にH04-04-01_自首調書_金沢西警察署がありますが、それ以外の乙号供述調書は全て谷内孝志警部補が単独で取り調べを行い、供述調書を作成したものです。他の警察官が取調室に入ってきた場面すら、記憶にないほどですが、お茶のようなものは持ってきたことがあった気もします。
7/3 10:34

現在の警察ではそういう対応はなされていないのではと思いますが、もともと随所にずさんさが見受けられる金沢西警察署の捜査と取り調べでした。ごくごく単純な事件として処理したようですが、最終的な判断は江村正之検察官がするという、おまかせ意識もあったのかもしれません。
7/3 10:34

4月3日から4月9日までの日付の供述調書というものが全く存在しません。個別に供述調書を何度見ていても、まったく気が付かなかったことですが、ディレクトリごとにファイルをまとめると、否応にも目に飛び込んできた現実でした。
7/3 10:34

気をつけているのは、ここでは使っていないですが、連番をつけるときのことです。01などと桁を合わせて0で埋めておかないと、1の次が2ではなく11になったりして、意図したように並んでくれません。ディレクトリの中のファイルはそのように連番を使っているはずです。
7/3 10:34

当時は取り調べの意味もわからず、刑事裁判の仕組みも知りようがなかったですが、江村正之検察官が証拠調べを請求した供述調書のみが金沢地方裁判所に提出され、その全ての内容を私が認めたこととされていたようです。
7/3 10:54

金沢地方裁判所に提出されなかったということは弁護士人の目にも触れなかったものと考えられますが、私の手元にある、あるいはあった供述調書は全て、弁護人の閲覧しうる状況にはなっていたものと考えられます。
7/3 10:54

当時の私を含めた世間の常識では、弁護人が当然に閲覧つまり目を通していたものと考えていたと思いますが、まともな閲覧を弁護士に期待することがそもそも大間違いであった可能性もありそうです。儲けにならないことは目を背け、見向きもしないという習性も強そうな職種かと思います。。
7/3 10:54

本書でずいぶん前には書いているとは思うのですが、なくなるはずのない供述調書が相当の数、消失している可能性が高いです。大方は羽咋市のアパートに住んでいる間のことでしたが、処分するはずもないのに、なくなっているものが相当数ありました。
7/3 10:55

基本的には3部の供述調書がありました。最初は平成5年12月ころの時点で東京の国選弁護人斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられたものでしたが、供述調書は全て縮小版になっていました。この縮小版に関しては、明らかに消失したというものを私は確認していません。
7/3 10:55

これはとても重要な資料なので確認も兼ねて再度書いておきますが、斐川雅文弁護士から郵送されたものは、上告趣意書の下書きや法規に関する書籍のコピーを別にすれば、もっとも数が少なく最低限の供述調書のみであったと思います。
7/3 11:15

次に差し入れを受けたのは平成6年の11月頃のことでした。ちょっとややこしかったのですが、金沢地方裁判所の民事部から原告代理人の長谷川紘之弁護士の書証の控えとして送られてきたものと思われました。
7/3 11:15

民事での損害賠償請求裁判の提起に伴うものでしたが、当時も理解に苦しむところが大きかったです。自分自身で理解の出来ない問題だったので、適切な説明も対応も出来なかったと思いますが、真相解明の手段としてその役割を果たさなければならないのかと、考えるのが精一杯でした。
7/3 11:15

長谷川紘之弁護士に関しては、今でも理解の出来ない存在ですが、ずいぶんと侮辱的な対応にも思え、好意的に理解するという努力が自分の納得になることは決してなかったです。
7/3 11:15

拘置所も同じでしたが、舎房の室内に何かを持ち込むのは、物品の受領や保管とは別の手続きが必要でした。郵送での差し入れもそうだったと思いますが、領置という手続きがあって、これは刑務所側での保管にもなっていたはずです。
7/3 11:15

舎房内に持ち込むには別に「仮下げ」という手続きが必要でした。これは房内所持の許可を伴うものでした。扱いとしては郵送や面会で差し入れられた本や雑誌、また所内で購入した本や雑誌も扱いとしては同じだったと思います。
7/3 11:36

金沢地方裁判所の民事部から郵送されたのではないかと思われる書類は仮下げでの房内所持の条件として、独居房への転房が必要だと言われました。初めに差し入れがあったという告知から2,3日後のようになんとなく憶えていますが、それまでいた南寮306号の雑居房から北寮の独居房に転房しました。
7/3 11:36

独居房に移ると同時に、仮下げを願い出ていた裁判資料のようなものが与えられたのですが、量が多かったためか、どこの家庭でもあって洗濯物を入れることが多いと思われるプラスチック製の網カゴに入れられていました。サイズもよくあるサイズという感じでした。
7/3 11:36

2段に分けてその網カゴにちょうど収まるという分量であったと記憶しています。高さは少しはみ出す程度だったとも記憶にはありますが、高くて25センチぐらいかと思います。サイズとしてはほとんどがB4用紙の袋とじだったので、B5の用紙と同じサイズのはずです。
7/3 11:36

言い方を変えると2つの綴りになっていたと思います。用紙のサイズは当時の裁判所の定型であったB4用紙の袋とじです。はっきりとした時期は忘れましたが現在も同じと思われるA4用紙の横書きになったのは、平成11年より後であったと思います。
7/3 11:36

その民事で金沢地方裁判所から送られてきたと思われる書類に関しては書証とか書いて番号も振ってあったように思いますが、表紙の部分がどこにいったのかも現在わからないので、確認は難しいかもしれないです。
7/3 13:58

福井刑務所の北寮と南寮については、本書において以前詳しい説明を書いていると思いますので、詳しくはそちらでご覧頂きたいと思います。
7/3 14:18

独居房に転房になったのは平成6年の11月の10日ころとも記憶にはありますが、11月の初め頃であったというのは間違いないと思います。それから一週間も経たない頃であったと思いますが、示し合わせたように今度は母親を介して木梨松嗣弁護士から記録が届きました。
7/3 14:18

厚い紙の表紙のようなものに挟まれた一綴りの書面でした。表紙の部分には「一件記録」とかいう記載もあったように記憶しています。これは以前、デジカメで撮影し、インターネットでも公開していたようにも思うのですが、現在のところ私自身確認を出来ていません。
7/3 14:18

その編綴された書面はそれもほとんどがB4用紙の袋とじになっていたと思いますが、厚みというか高さが30センチに近いだけあったと思います。数時間前になりますがいつも釣ってきた魚の大きさを測るのに使ってる巻き尺で、だいたいの長さを確認しました。
7/3 14:18

金沢東インター付近で山下強が怪我をしたという話から、別の説明に外れていってしまったかと思います。しっかりと脈絡のある説明や事実ばかりではないので、思い出したことをを思い出した時に書くというのも一つの方針です。
7/3 14:18

はっきりいって私としては断片的にしかわからないことも多いです。弁護士による説明や話など、かき集めてもごくごく短い時間であり、簡素な内容でした。事実上の幽閉状態だったとも言えますし、人質司法を検察批判として攻撃する弁護士サイドから、その警察検察の落ち度も含め最大限の利用といえます。
7/3 14:39

木梨松嗣弁護士の刑事弁護にかこつけた権利侵害の攻撃性は、人の生命身体に向けた重大な法益侵害として、殺人未遂の法的評価に十分値するものだと考えておりますし、求める処罰は仮釈放もない無期懲役の一点のみ、娑婆終いの娑婆捨て峠が目標です。
7/3 14:39

必要な事柄に関しては漏れなく記載するというのが大前提なので、項目の振り分けにかかわらず書くことがありますが、なるべくなら見出しに対応した項目の内容で、おさらいのような触れ方は、少なくともするように心がけたいと思います。
7/3 14:59

やはり思い返してみたのですが、金沢市花里の被告訴人安田敏のアパートに行き、ネックレスのプレゼントを被害者AAさんに渡してくれるように頼みに行った時と、山下強の代走の電話があったのは同じ夜だったと思います。
7/3 14:59

ネックレスのプレゼントの事自体、まだほとんど説明をしていないと思いますが、私は直接ではなく、被告訴人池田宏美を通じて頼んでくれと、言ったように思います。実際、被告訴人安田敏からは後日それらしい説明も受けたのですが、被告訴人池田宏美の供述調書とは隔たりというか違いもあります。
7/3 14:59

他にはっきりと覚えていることは、12月24日のクリスマスイブの朝、私は東京都練馬区で荷降ろしをして、池袋あたりから首都高速に乗り、そのまま茨城県古河市の山三青果に向かったということです。
7/3 15:20

練馬区で降ろした荷物は、石川県七尾市の林ベニアから積んだベニアの荷物だったと思います。同じく七尾市の能登木材からは製材のような荷物を積むことが多く、どちらもほとんごが関東での荷降ろしというか、行き先が関東だったと思います。関東以外というのはちょっと思い出せないです。
7/3 15:20

これは七尾市に住む被告訴人東渡好信が紹介した仕事で、丸一運輸からの下請けのようでした。丸一運輸の会社事務所には何度か行きましたが、わかりづらい目立たない場所にある会社でしたが、ずいぶんと大きいのに驚きました。割合よく見かけるトラックではありましたが、目立たない感じでもありました。
7/3 15:20

一見すると、その丸一運輸の仕事を手土産に市場急配センターの配車係におさまって楽をするというのが被告訴人東渡好信の当初の目的と思われました。
7/3 15:20

ところが、平成4年になると被告訴人東渡好信は無断欠勤を繰り返したり、理解に苦しむ言動や、さらには精神病者を装う演技とも見える、態度振る舞いを見せることもありました。被告訴人東渡好信に関する多くの開設は輪島の浜上さんから聞いていた話でもありました。
7/3 15:20

そのような被告訴人東渡好信の言動や振る舞いは、被告訴人安田敏の非常識な言動振る舞いとも、似たような時期に足並みを揃えるところがあったかと思います。被告訴人安田敏のそれは憐憫を誘うような要素もあり、同情に持っていくような方向性がありました。
7/3 15:40

言い方を変えると、正論だけと私(広野)が厳しすぎて、被告訴人安田敏がいじけて悪い方向に進んでいるという印象操作がうかがえました。それは私と被害者AAさんの関係にも通じるもので、その場の状況に即し、効果的なものであったと考えられます。
7/3 15:40

平成3年12月21日は、七尾市でベニヤか製材の積み込みに行ったことも微かに記憶に残っています。積み置きの関東行きの荷物で、月曜日降ろしだったと考えられます。ベニヤや製材の荷物で、日曜日に荷降ろしをしたという記憶はありません。建設現場でも荷おろしというのもなかったと思います。
7/3 15:41

ベニヤは倉庫降ろしもあったと思いますが、製材はほとんどが木材店のような敷地での荷おろしでした。事務所の建物自体は小さいのに、敷地がかなり広いという共通した特徴もあったと記憶しています。
7/3 15:41

ベニヤに関しては東京都の東大和市に行ったこともありましたが、時期の記憶がはっきりしないものの、被告訴人東渡好信の紹介というかあるいは周旋で七尾からの仕事を始めた最初の頃であったようにも思います。
7/3 15:41

ヤナセといえばドイツ車の関係で当時既に知られた会社だったと思いますが、被告訴人安田敏の説明で柳に瀬と書いて「ヤナセ」と読むのは、なるほどと思ったのも印象的でした。妻になった彼女の名前だと被告訴人安田敏は言っていました。
7/3 16:01

結婚するというより12月の25日ころが予定日で子供が生まれるという話を被告訴人安田敏はしていましたが、それも12月に入ってからであったかもしれません。あるいは11月中ですが、話を聞いてから出産までの間というのも、余りなかったという印象が残っています。
7/3 16:01

被告訴人安田敏のアパートにちょくちょく行っていたのは、まだ市内配達の仕事をやっていた頃で、9月より前が多かったと思います。12月22日の夜まで、その妻となった彼女が私に対して、頑なに顔を見せないようにしていたことは、本書でも既に書いている部分があるかと思います。
7/3 16:01

父親の遺影のことや、金沢市諸江の辺りに住んでいたということはまだ書いていないように思います。いちおうアパートということにしていますが、民家の二階をまるごと間借りしているような住居でした。内装はアパートにしか見えなかったですが、外から見るとアパートには見えなかったと思います。
7/3 16:01

金沢市花里のどのあたりか、前にGoogleマップで調べたこともあったのですが、車で通っていた道はだいたい記憶にあるものの、住宅地図ではどのあたりか、はっきりわからないところがありました。
7/3 16:02

前には割と広い道路があって、その斜め前のあたりに、団地のような建物があって、被告訴人安田敏はそれを警察官の家族が住む団地と話していたように思います。あるいは別の公務員ですが、後日新聞で見た情報も私の記憶に混じっているのか、検察官か裁判官の官舎という話もあったかもしれないです。
7/3 16:22

花里というのは地図上の範囲も狭かったと思いますが、町名としても聞くことがなかったので、石川県民でも知らない人が多いかもしれません。涌波の近くと言ったほうが、通りが良いかもしれません。
7/3 16:22