6月25日に投稿したなう | 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

 殺人未遂事件として木梨松嗣弁護士、長谷川紘之弁護士を金沢地方検察庁に刑事告訴手続き中 (さらば弁護士鉄道\泥棒神社の物語)

 市場急配センター(石川県金沢市)の組織犯罪と加担、隠蔽をした弁護士らの物語(事実)。



被告訴人安田敏がいつ頃から市場急配センターで仕事をするようになったのかはっきり思い出せないところもありますが、初めに接触をして来たのは4月の終わり頃だったとは記憶しています。
6/25 0:20

それまでは毎日、金沢市場輸送の事務所で姿を見ていて、運転手なのでいつも事務所の中を見ていたわけではなかったですが、席を外している姿を見たことがなかったような被告訴人池田宏美だったのです。市場急配センターの仕事をしていたというのは説明はなくても納得出来ましたが。
6/25 0:40

その後も市場急配センターでは被告訴人池田宏美が席を外す姿というのは、滅多に見かけることがなかったと思います。被害者AAさんとは違い、いつも割と遅い時間まで事務所で仕事をしていました。18時ころは普通に事務所にいたとも思います。
6/25 0:40

19時ともなれば二階の事務所に電気が付いている事自体、かなり稀だったとは思いますが、被告訴人池田宏美が帰っていく姿というのも余り見かけなかったような気もします。
6/25 0:40

被告訴人池田宏美はいつも会社事務所の正面前に車を駐車していました。一階の休憩室から外を見ていれば、姿は見えていたと思いますが、帰っていく姿というのは余り見かけることがなかったように思います。
6/25 0:40

長距離の運転手は当日の運行がない場合、一応は17時が定時の退社時間ということになっていたかと思いますが、タイムカードというのもなかったと思いますし、そのあたりはかなりいい加減だったと思います。
6/25 0:40

そのテレビは赤い色の小さいテレビだったと思います。平成3年の9月、被告訴人安田敏と二人で8号線バイパスの電化のコジマに行ったのですが、店に入って少しすると被告訴人池田宏美とAAさんが来ました。テレビはその時に被告訴人池田宏美らが買ったものだと思います。
6/25 1:01

休憩室の内装が完成した直後だったと思いますが、その建築工事中に、被害者AAさんのフイルム貼りの手伝いがありました。テレビと電化のコジマのことは9月の20日頃かと思います。
6/25 1:01

自由テーマのような感じになってきて、何を目的に書いているのか自分でも把握しづらくなってきました。この項目では木村さんのことがメインテーマだったと思いますが、関連した雑多な事実関係も盛り込んでおこうかと思います。
6/25 1:01

当時は、ホテルながやま、という名称であったようにあったように思い、ながやま、だけではわかりにくいと思うので、ホテルながやま、ということで書いていこうと思います。
6/25 1:01

木村さんが世話をしたというホテルながやま、の仮払代金を被告訴人竹沢俊寿が踏み倒したという木村さんの話は後日談でありますが、私自身、ホテルながやま、の慰安会で木村さんの姿を見たという記憶は残っていません。
6/25 1:01

ただ、その宴会の途中に私はものすごく眠くなりました。直前の仕事や運行のことも記憶にはないのですが、たぶん酒を飲んだので急激に眠くなったのだと思います。
6/25 1:22

私は誰にも告げず、宴会場を抜け出し、部屋に戻って布団に入って眠りました。熟睡していたと思いますが、何時間か寝ているうちに起こされ、急かされて車に乗り込み、そのままホテルながやま、を出て金沢に帰ってきました。
6/25 1:22

状況がのみこめないまま、一緒に車に乗って金沢に帰ってきたのですが、それから金沢市場輸送の給油機の前辺りで、けっこう長い時間話をしていました。だいたいの推定ですが、ホテルながやま、を出たのは22時から23時の間ではないかと思います。
6/25 1:22

長い時間、金沢市場輸送の前の給油機の辺りで話をしたあと、その場にいたたぶん全員で、8号線バイパスの住所は諸江になるのではと思いますが、そこの「くるまやラーメン」に行って夜中にラーメンを食べたことを印象的に記憶しています。
6/25 1:22

給油機の前辺りの会話では、なぜホテルながやま、を抜けだして帰ってくることになったのか事情を理解することが出来ました。
6/25 1:22

宴会場ではなかったと思いますが、その後に行った酒を飲むような場所というか店でのことであったと思います。どこまで具体的な話を聞いたのか細かくは思い出せませんが、話を聞いた私としてはそのような理解でしたし、宴会場というのは止める人も多いので考えにくいと思います。
6/25 1:42

なにが原因だったのか話を聞いていてもはっきりとはわからない部分がありましたが、金沢市場輸送の運転手と市場急配センターの運転手の間で、衝突というかケンカがあったという話でした。社員ではなく運転手と書いたのは、双方に運転手ではない持ち込みの運転手が含まれていたからです。
6/25 1:43

そのケンカの構図は市場急配センター対金沢市場輸送ではなく、むしろ能登の内浦対能登の輪島という構図にも見えました。
6/25 1:43

輪島というのは輪島市ということでわかりやすいと思いますが、内浦というのは、能登半島の外浦との区別で使われる言葉です。要するに富山湾に面した宇出津や小木、松波辺りを指す言葉ですが、その意味では珠洲市の飯田や蛸島も含まれるはずではあります。
6/25 1:43

その珠洲市は狼煙に近い禄剛崎灯台の辺りを境に、外浦と区別されているかと思います。珠洲市でも折戸、高屋、木ノ浦海岸、馬緤海岸、大谷という辺りは外浦になります。
6/25 1:43

大谷は小さなスーパーもあるその辺りでは町らしい町で、その先の真裏海岸が輪島市との境です。輪島市に入るとそこは割と知名度も高い景勝地、曽々木海岸です。それから輪島市全体を外浦というと思いますし、富山湾とは反対側の富来町など羽咋郡の海も外浦に含まれていると思います。
6/25 2:03

富来町には能登の景勝地として有名な巌門などもありますが、能登金剛とも呼ばれているかと思います。外浦に共通していることは、風が強く波が荒いことでもあります。その点、富山湾に面した内浦は海も遥かに穏やかです。
6/25 2:03

平成17年辺りに市町村合併があって、それまで珠洲郡内浦町であった松波や小木は、私が生まれ住む宇出津の鳳至郡能都町、それと柳田村と合併して、鳳珠郡能登町となりました。
6/25 2:03

ちなみに同じ頃だったと思いますが、富山湾とは反対側でもあった同じく鳳至郡の門前町は、輪島市に吸収されました。宇出津から輪島市の曽々木海岸までも距離的には22キロ程度なのですが、小さい頃の感覚が未だに残っていて、ずいぶん遠いところという感覚が私には残っています。
6/25 2:03

宇出津より珠洲市の飯田の方が町としては大きいですが、宇出津には、あばれ祭り、という割と有名な祭りがあり、それと石川県立水産高校という寮もある高校もかってはありました。小木港は北洋の遠洋業業の中心地で、それらが人のつながりにもなっていたと思います。
6/25 2:03

事件とも関連が薄いのので説明から除外してもいいぐらいなのですが、ひとつだけ気になることがあったので、そのことを先に書いておきたいと思います。
6/25 2:23

それは平成3年の9月、市場急配センターの一階休憩室が完成した直後のことであったと思います。その輪島のYがその休憩室に来ていたのですが、その場には被告訴人安田敏もいました。Yが一緒に来たのは被告訴人安田繁克ではなかったかと思うのですが、このところ思い出すこともなかったので。
6/25 2:24

このところ思い出すこともなかったので、はっきりとは思い出せないのですが、同行者がもう一人いて、私にはかなり意外な組み合わせにも思えました。
6/25 2:24

彼女か結婚の話題になった時、被告訴人安田敏が彼女がいることについて、「好きな人がいても言えないので不自由」という趣旨の発言をしました。その口ぶりを聞いた時、被害者AAさんのことを指しているようにも思いましたが、同時にかなり演技臭い台詞にも思えました。
6/25 2:24

微かではあったと思いますが、被告訴人安田敏が何かを企んでいるのではないかと、ふと感じた最初の機会であったようにも思います。横恋慕をしているのかと考えたこともありましたが、そうとは考えにくい言動も感じられていましたし、同棲している彼女がいるのにという思いもありました。
6/25 2:24

やはり輪島のYと被告訴人安田繁克は一緒に来ていたと思うのですが、同行者として一緒にいたのは、私の過去に作成した正面の内容が正確だと自信を持って言えます。現在の私の記憶では、このことに自信を持って断定することは出来ません。
6/25 2:44

あるいは電化のコジマのテレビと同じ日であったようにも思います。どちらも午後の比較的夕方に近い時間であったと思います。あれも偶然ではなかった企ての一つだった可能性があるとは思いますが、冬至の私にはそういう警戒的な意識もなかったので、見落としもあったものと思われます。
6/25 2:45

輪島のMは、その後に続く輪島の若者の入社のきっかけとなった人物ですが、本書ではMYと表記してきたかと思います。そのMと竹林は、慰安会のようなものは大嫌いなので絶対参加しないと言っていたので、たぶん参加もしていなかったと思います。
6/25 2:45

竹林に関しては、ホテルながやま、の慰安会の時点で金沢市場輸送に在籍していたのかも微妙な時期かと思います。たぶんやめていなくなっていたと思います。
6/25 2:45

ただ、竹林本人が慰安会のような温泉の一泊旅行に対する否定的な意見を強い訴えとして聞かされていた記憶があるので、どうなのかなとは思った次第です。一言で言えば変わり者という一面でしたが、ふとしたことに強いこだわりを持ち、理屈で説明をするような人物でした。
6/25 2:45

時刻は6月25日10時29分になっています。ほぼ昨夜の状態を維持して、続きを書いていこうと思います。書いているうちに思い出すこともあるかもしれませんが、20年以上前のことなのでしんどいところもあります。
6/25 10:52

夜にホテルながやま、から一緒に戻ってきたメンバーとして、はっきり記憶に残っているのは輪島のO、同じくH、同じくSでしょうか。加えてたぶんいたと思うのが輪島のY。はっきりしないのが輪島のKで、Kは金沢市場輸送に入るのも一番後であったと思いますし、いたのかも時期的に微妙。
6/25 11:12

いたような気もするしいなかったような気もするのが平ボディ車に乗務していた輪島のYでした。彼は輪島のyや同じくh,同じくk、同じくhらより、学年で一つ年上と聞いていたと思います。前者の4人は確か私より学年で2つ年下と聞いていたように思います。
6/25 11:12

もう一人いたと思う人物でその場にいたのが意外に思っていたのが、珠洲郡内浦町新保出身と聞く、KOでした。KOに関しては本書において、これまでに何度か書いていることがあると思いますが、私が大きく重視するのが、関越道での勘違い飛び降り自殺のことです。
6/25 11:12

仮にその話が作り話であるとすれば、KOは金沢市場輸送と仕事以外の特別な関係があり、組織的な工作活動員であった可能性も出てくるのではと考えています。重要なことだけに割とぼかした表現で中途半端に書いていたところもあるかと思います。警察や検察なら簡単に確認できるはずですが。
6/25 11:12

私は昭和52年の4月に能都中学校に入学し1年生になったようです。昭和55年の4月に水産高校小木分校に入学したことは記憶がはっきりしているので、そこから逆算してみました。35年以上前のことになるので、思い出すのも容易ではありません。
6/25 11:33

能都中学校に入学してすぐに相撲部に入部しましたが、時期としてはっきりと覚えているのは9月の10日頃にあったと思う羽咋郡富来町の富来中学校での新人戦でした。この時は民宿に一泊しましたが、民宿に泊まったというのはその時生まれて初めての経験だったと思います。
6/25 11:33

他にも相撲の大会はいくつもあったのですが、何月頃だったかとなると記憶にありません。相撲では外でほとんど裸に近い状態ですが、特に寒い思いをしたという記憶もないので、10月以降3月などには大会はなかったのではと考えられます。4月でもまだけっこう寒そうです。
6/25 11:33

他に強く印象に残っている大会が松波大会でした。松波中学校の場所ですが、私は2009年ぐらいになって初めてその場所を知りました。バスで珠洲市に行くようになり、松波中学校の前のバス停にも停るようになったからです。
6/25 11:33

その場所は割と町外れで、松波から新保の海岸線経由で小木港の方に行く道路の初めの方にありました。もう少し行って左に入って行くと、松波の自動車学校があって、そこには若い頃よく行くことがあったのですが、松波中学校の場所というのは気が付かなかったです。
6/25 11:33

松波には他にも説明の箇所があるので、Googleマップのマイプレイスを作っておこうかと思います。
6/25 11:53

それは新保の場所です。ざっと地図を見回していても発見できなかったので、検索機能の「現在のビューの場所の近くを検索する」というのを使いました。これは今日初めて知った選択肢です。
6/25 12:13

すると一発で新保の場所にマークがついたのですが、自分がそれまで新保だと思っていた場所とは異なり、その辺りの海岸線では全く反対方向の位置でした。
6/25 12:14

私は小木から向かって行くと、白丸の先に新保があって、その辺りが道沿いの海岸線の終端だと思っていました。ところが実際は小木から越坂の少し山間の道を抜けて海岸線に出た初めの辺りが新保で、五色ヶ浜海水浴場より手前側にあるのに驚きました。
6/25 12:14

どうも越坂の隣がすぐに新保になるようです。同じ能登町でも細かい地名があって、どこなのか知らないものもありますが、やはり隣接している可能性が高そうです。
6/25 12:14

小木から一ノ瀬、越坂の辺りは九十九湾周辺ということもありますが、小木と同じという意識が強いです。中学校に通うのも小木中学校と決まっていると聞いていました。
6/25 12:14

KOから以前、新保では小木中学校、松波中学校とどちらでも選べると聞いていました。私は新保が白丸の先で松波の町に近いと考えていたので、KOはあえてより離れているとも考えられる小木中学校を選んだのかと考えていたのです。
6/25 12:34

前にも書いていることと思いますが、KOは私が当然に関越道から飛び降り自殺した松波の昭和53年当時相撲部の有力選手のことを知っているような前提で、話を始めたという印象があり、これがずいぶんと長い間気になってきました。
6/25 12:34

小木港から海岸線で松波に向かうと、白丸を過ぎた辺りから海岸線を離れ、田んぼや山間の道に入っていきます。その辺りには立壁や川尻という地名もありますが、松波中学校への通学範囲と考えられます。
6/25 12:35

個人的な感覚ですが、その立壁や川尻から小木中学校への通学を希望するというのはよほどの事情がない限り無理があると思いますし普通にないことだと思います。
6/25 12:35

その相撲部の有力選手は白丸の周辺に家があって、KOとは幼なじみか小学校が同じ関係で、有力選手は松波中学校を選択し、KOは小木中学校を選んだんとかと考えることもありました。二人が学年で同級生であることは間違いないと思います。
6/25 12:55

松波での相撲大会ですが、これはやはり昭和53年で私が中学校2年生の時と考えられます。先ほどから説明している松波中学校の有力選手は学年で私の一つ上でしたが、優勝候補の一人だと聞いていました。私が1年生の時の3年生のメンバーの姿というのも思い浮かんでは来ません。
6/25 12:55

他に珠洲市の緑ヶ丘中学校にも優勝候補と目される選手がいましたが、かなりの巨漢でした。松波中学校の有力選手の場合は体格はいいものの、オリンピックの水泳競技の水泳の選手によく見かけるような体型であったと記憶に残っています。
6/25 12:55

私としてはKOに中学校の時相撲部にいたという話はしていないと思うのですが、あるいは珠洲市大谷のYSさんのことで話すことはあったかもしれません。KO自身が相撲部に関係していたという話は全く聞いた覚えが無いですし、それはまずなかったと思います。
6/25 12:55

KOは珠洲市大谷のYSさんのことをよく知っている口ぶりで話をしていたような記憶があります。その時はさほど気にも留めなかったので詳しい話は聞かなかったように思いますが、小木の遠洋漁船で知り合ったような関係だと、私は捉えていたように思います。
6/25 12:55

KOは自分で、小木中学校を出てすぐに遠洋漁船の漁師になったと話していたと思いますし、漁師をやめて初めての丘の仕事が金沢市場輸送だと話していたように思います。丘というのは出漁したあとの海の上での生活に対応にした陸上での生活のことです。
6/25 16:23

昭和59年の10月の時点ではKOの姿はありませんでしたが、ほぼその直後に入社したとも聞いたように思います。小木港の船に乗っていたと言う割には、付き合いのある親しい共通の友人、知人という話は聞かなかったようにも思います。仕事以外でもKOの名前はほどんど聞くことがなかったと。
6/25 16:43

高校に行っていれば、昭和57年の春に卒業して社会に出ていると思いますので、4年ぐらい小木の船に乗っていたことが推定されます。誰かの紹介で金沢市場輸送に入社したという話は聞かなかったですが、職安を通して入社した可能性が高そうだとは思っていました。本人に確認はしていませんが。
6/25 16:43

姫のNKさんが金沢市場輸送に入社して4トン車に乗っていると話を聞いた頃にも、そのKOの入社時期は重なっていると思います。KOは割と親しげな感じでNKさんの通称を呼んでいたような気もするのですが、そうだとすれば漁師をしていた時に付き合いがあったことも考えられるかと思います。
6/25 16:43

初めは4トン車に乗務していたともKO本人から聞いた覚えがありますが、私が二度目に入社して初めて知り合った頃には、冷凍機付きの三菱ふそうの大型車に乗務していました。その頃は三菱ふそうのトラックというのはそれ一台だったと思います。
6/25 16:44

KOが小木中学校で学年が私の一つ上でしたが、その当時の小木中学校の相撲部の人とは面識もありました。KOがいることはなかったと思いますし、いたというような話も聞くことはありませんでした。
6/25 16:44

KOがなぜ松波中学校の有力選手の名前を知っていたのか、たまたま親戚関係があったとか、親戚の近所に住んでいる子供で一緒に遊んだことがあったという事情でもあったのなら別ですが、宇出津でも普通には考えにくく、聞いたこともない話です。
6/25 17:04

その松波中学校の有力選手の名前ですが、1年ほど前までははっきり憶えていたものの、数カ月前からやや記憶に自信が持てなくなっています。前に松波の町中をバイクで走っていて、同じ名前の店を見たのですが、久しく松波には行っていません。
6/25 17:04

今は松波にバイパスの道路があるので、珠洲市に行く時も町中を通らずに行くことがほとんどです。松波に用事があることもないですし、買い物に行くような店もありません。
6/25 17:04

宇出津から松波に行くのは十八速(じゅうはっそく)と呼ばれる山間の道路が国道249号線でもあり最短です。小木経由の海岸線だと倍ほど時間もかかるかと思いますが、バスは2つの路線があって、本数も少ないので時間のかかる小木経由でも乗ることが多かったです。
6/25 17:04

十八速から珠洲市に向かうと松波の町の手前からバイパスに入って海岸線から離れた道を走って飯田の町中まで入るのが普通です。以前は必ず松波の町中を通って恋路海岸を通り、ほとんど海岸線に近いところを走って飯田まで行くのが普通でした。
6/25 17:04

割と最近になって、松波駅があったバス停の正面の小高い山の上に「松波城址」というような看板があって寺院のような建物も見えていました。相撲場があったのはあの辺りかと考えていたのですが、今日Googleマップの航空写真を見たところ、違うように思いました。
6/25 17:25

寺院と隣接して職業訓練校の建物があるのも意外でしたが、思いの外海にも近く、相撲場があるようなスペースもあるとは思えなかったからです。その大会の時に、松波中学校の有力選手の話も誰から聞いていたという記憶があります。
6/25 17:25

今日改めてKOのことを考えてみると、同じ鮮魚の運転手をしていた当時でも、出先ではあまり一緒になることがなかったような気がしました。出先で運転手が一緒になることが多いのは、定期便のある塩釜港、石巻港、それと九州の福岡、長浜の魚市場です。
6/25 17:25

それでも金沢の中央市場での荷降ろしでは割と一緒になることがあったように思いますし、そういう場合、荷物の積み下ろしを手伝い合って、終わってから一緒に食事をするのが多かったのですが、彼にも何度かおごってもらっていたような気もします。
6/25 17:25

彼は妻帯者で、輪島の運転手は全員が独身だったという違いもありますが。他の運転手とは生活のスタイルも違ったり、一緒になるようなことも割と少なかったと思います。会社にいてぶらぶらしていることも少なく、アパートも近かったので必要以外は会社にいないようにしていたのかもです。
6/25 17:25

「石芽会」というスッテカーを運転席のガラスの前においているトラックを見ていたようなことも思い出したのですが、やはり記憶は曖昧で、KOが所属していた無線のクラブとは違うかもしれません。
6/25 17:45

割とはっきり覚えていることはKOが、自分の使っているハンドル名について「不動の番人」とか言っていたようなことです。全国的にも名の通った大きなクラブだったようには覚えているのですが、記憶は断片的で薄くなっています。
6/25 17:45

KOがやっていたのはパーソナル無線ではなく、本格的なCB無線だったと思います。ただ、金沢市場輸送でKOと同じ無線仲間というのは私の知る限りいなかったと思いますし、話を聞くこともなかったと思います。
6/25 17:46

KOの無線仲間については余り話を聞いた覚えがありません。どこの運送会社に多いとも聞かず、それらしい仲間と一緒にいるような姿も見たことがなかったです。
6/25 17:46

中央市場の近く、もう少し絞って言えばウロコ運送の近くだったと思いますが、無線のショップがありました。子供の頃に行っていた水産高校の文化祭での実習室のことを思い起こすような店内だったと記憶にありますが、倉庫に手を入れたような店内でもありました。
6/25 17:46

平成2年の春から夏の時期であったかもしれません。輪島の運転手もほとんど無線をやっていたと思いますが、彼らだけの仲間内でやっていたと思う反面、本格的なCB無線をやっているような話もあるいはきいたかもしれません。
6/25 18:06

私は輪島のSにパーソナル無線を安く譲ってもらい、それをトラックにつけるようになったのですが、余り使うことはなかったです。
6/25 18:06

無線といえば、被告訴人多田敏明も無線のクラブに入っているようなことを話していましたが、自分から具体的な話をすることはなかったように思いますし、乗務しているトラックに無線機を付けたいたという記憶もはっきりしません。無線をやる場合は、トラックにアンテナもつけていました。
6/25 18:06

ある日、夕方の遅い時間に市場急配センターの一階休憩室で、西口がいたのですが、被告訴人多田敏明に連絡をとったところ、無声のクラブの集まりで金沢港の近くにいるような話をしていました。その時、被告訴人多田敏明は無線をやっているのかと、かなり意外に思ったような記憶があります。
6/25 18:06

断片的な記憶なのでつながりも思い出せないのですが、その後に被告訴人多田敏明が来て、3人で北安江に焼肉屋に行ったのだと思います。平成4年3月の中頃のことでした。この時の西口の登場も、偶然ではないと思います。
6/25 18:06

西口の登場というのは主なものだけで、その時が3回めでした。初めが平成3年11月26日のことです。次が平成3年12月の28日と思われる日のことです。その時は西口と被告訴人多田敏明の二人に誘われる形で、被告訴人浜口卓也のアパートに行き、そのあと諸江の焼肉店に行きました。
6/25 18:27

被告訴人多田敏明が平成3年の秋頃から主に乗務していたのは日野の新型のモデルで、4トンのウィング車でした。初めは被告訴人梅野博之と交代で乗務していることが多かったようにも思いますが、平成4年ころになるとほぼ専属のような常務になっているような様子でした。
6/25 18:27

免停が明けてからの被告訴人多田敏明は、受け持ちの仕事を持たず、いわばフリーの運転手として、その時々の荷物を運んでいたようです。大型車に同乗して荷物の積み下ろしを手伝うこともありましたが、話し相手以外の必要性などほとんどないものと思われます。
6/25 18:27

事実上、被告訴人多田敏明は私の動静を監視し、情報を収集するための工作活動に従事していたものと思われます。
6/25 18:47

事件を起こしたあとに思い出したことかと思いますが、当日の平成4年4月1日、私は翌日の運行の指示として東京行きの引っ越しの荷物を積み込むことと、被告訴人多田敏明を同乗、同行させることを受けていました。
6/25 18:47

あるいは私の早とちりだったのかもしれないですが、東京への運行に同乗させていくものと考えていました。「トッチを連れて行け」というような言葉での指示であったと思います。
6/25 18:47

被告訴人多田敏明に関しては、被害者AAさんの父親の仕事について弁護士だと私に吹き込んでいたことも、徹底的に検討するべき問題の一つですが、いずれも別の項目にて言及したいと思います。
6/25 18:47

ホテルながやま、での説明に戻ります。片山津温泉でもホテルながやま、片山津温泉の外れの方では北陸道の片山津インターからもそれだけ離れていましたが、国道8号線にはより近い位置でもありました。高速道路を使ったのか国道8号線を走ってきたのかも思い出せないですが、誰かの車に乗って金沢へ。
6/25 18:47

誰の車に乗って帰ったのかも記憶にないのですが、車の中での会話というのはほとんどなかったようにも記憶にはあります。前にも書いたように、金沢に戻り金沢市場輸送の事務所の前の給油機の前辺りから道路の辺りで、しゃがんだりした状態で話をした場面が記憶に残っています。
6/25 20:15

すべては私が一人客室の布団で寝ている間に起こったことのようでした。市場急配センターの運転手と金沢市場輸送の運転手の間で、ケンカになったという話でしたが、どこか要領を得ないところがありました。まず、誰一人多少なりとも怪我をした様子はなかったです。
6/25 20:35

双方ともに小木港の遠洋漁船の漁師をしていた者が多かったので、かなり腕力のありそうな者が多かったです。殴り合いがあったとはとても思えなかったのですが、彼らの話を聞いていても、その辺りがわからず掴みどころないものを感じていました。
6/25 20:36

市場急配センターの側でそのケンカに参加したと聞く人物は、姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさん。さらに誰かの口から被告訴人安田繁克らしい男も加わって、その威勢がよく、あるいは暴れていたような話であったと思います。
6/25 20:36

姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさんの二人に関しては、輪島対内浦という因縁の対立という構図として、十分に理解できるものがありました。普段抑えに抑えていたものが、酒が入ったこともあり爆発したものと考えられたのです。
6/25 20:36

まず姫のNKさんのことですが、曽々木海岸あたりをドライブしていたところ、輪島の暴走族とトラブルとなり、ずいぶんと屈辱的な思いをしたと伝聞ですが聞いたことがありました。神野のKMから聞いた話の可能性が高いと思います。
6/25 22:16

現在の私はかなり以前に比べると人との付き合いもめっきり減っているので情報量も少ないですが、輪島市の海士町について話を聞くこともほとんどなくなりました。海士町は海女の町でもあり、全国的にも規模が大きいということでテレビでも見かけることはありましたが、別のイメージが強いです。
6/25 22:36

聞いた話ですが、本来の海士町は舳倉島で海女漁などをして暮らし、海が荒くなる冬場は漁も出来ないので本土の輪島市内で生活していると聞きました。以前は海女漁の話より、暴力団もものともしないような攻撃的、暴力的な集団として名を馳せていました。
6/25 22:37

歴史的にも近新婚を繰り返し、集団としての結束がとても強く、年配者を敬い厳しい環境で育っているとも聞いたことがあります。泣く子も黙るとは大げさかもしれませんが、能登半島でも特別な地区だと知られていました。
6/25 22:37

歴史的には九州の福岡県から流れてきた男女が輪島の海に住み着き、そのうち加賀藩の前田家からもお墨付きをもらって、海女漁をするようになったと聞きます。いずれにせよ、輪島市と言っても海士町はとりわけて特別な地区でした。
6/25 22:37

海士町は漁師町でもありましたが、どういうわけかほとんどの若者は、北洋の遠洋業がある小木港の遠洋漁船に乗り組むとも聞いていましたが、金沢市場輸送で運転手をしていた輪島の若者も、輪島崎のOと平ボディ車に乗務していたYを除いて、小木港の遠洋漁船に乗り組んでいたと聞きました。
6/25 22:37

地元小木港の話では、海士町の若者は気が荒く手に負えないので、一つの船に二人かあるいは一人以上は乗せないことになっていると聞いたこともあります。二人か一人かの違いは、私自信の記憶の状態によるものです。20年以上前に聞いていた話なので、記憶もはっきりしません。
6/25 22:57

海士町の話は地元の宇出津や、小木港の遠洋漁船に乗っている漁師の間でも聞いていましたが、より物凄いと感じたのは、被告訴人安田敏と金沢の観音堂のアパートで遊んでいた頃のことでした。既に本書で書いてある部分もあると思うのでなるべく省略したいですが、藤江の陸橋の付近の溜まり場のことなど。
6/25 22:57

金沢で暴走族のリーダーをやっていたKTは、どちらかといえば貧弱そうな体型で腕力があるとはとても思えないタイプでしたが、事実上統率力はあって、暴走族のリーダーにもなっているという感じでした。
6/25 22:57