時刻は6月24日8時1分になっています。
6/24 8:23
やはり、裏駐車場のことよりさきに書いておきたいというか、より集中できそうなことがあるのでそれを先に書いておきたいと思います。とりあえず2月1日のことを中心に書くので、裏駐車場の行動の終わりという事実もあります。
6/24 8:43
本人から話が聞けない以上、想像というか推測になりますが、事実に則して事実を根拠に書いていくので、合理性は十分あると考えています。結論から言えば裏駐車場の駐車の始まりも終わりも、被告訴人池田宏美らの指示を受けた行動だったということです。
6/24 8:44
裏駐車場に関してはまだまだ書いておくことがあります。自宅の電話に出なくなったのと同時に始まった行動ですが、それは退社のタイミングで直接声を書けてほしいという意思表示であり、その機会を作ってくれているものと考えることが出来ました。
6/24 8:44
すぐにそう思ったわけではなく、慎重に彼女の行動を見ていましたが、いよいよそれ以外にないと考え、実際に声を書けたのは年が明けた平成4年1月になってからでした。1月中には3回、声を掛け、話をしました。
6/24 8:44
正確に言うと、いきなり声を書けたのは初めの一回だけだったかもしれません。駐車してある私の担当の大型トラック3068号の助手席に乗ってもらい話をしましたが、「今日は美容院にいかんといけん、また今度」と言われたこともありました。
6/24 9:04
初めに裏駐車場で声を掛けたのは平成4年1月の10日ころではなかったかと思います。外はすっかり暗くなっていたことも他の時に共通していました。
6/24 9:43
事務員である被害者AAさんの退社時間というのは17時から17時半の間でした。18時以降に会社にいたころもありますが、それはかなりの例外で、残業という感じではなかったと思います。
6/24 10:04
その17時から17時半という時間帯は、会社にいる人も少ない時間帯でした。市内配達の運転手のほとんどは16時から16時半ころの間には帰っていなくなっていたと思います。朝の仕事の始まりは5時半か6時ぐらいだったと思います。
6/24 10:04
日照時間というのは地域的な違いもあるかと思いますが、冬至が確か12月の下旬で、一番日が短い、ということになっていると思います。17時ちょうどだとまだ薄暗さが残っているかと思いますが、17時半となると夜と同じ暗さではなかったかと思います。
6/24 10:04
17時が退社時間だったと思いますが、17時を過ぎてすぐに退社するということも彼女の場合は少なかったと思います。17時半までいるというのも少なかったと思いますが、その30分の間がほとんどだったとは思います。
6/24 10:24
例外だったのは平成3年10月12日と思われる土曜日。calコマンドで確認したところやはり土曜日でした。この日のことも独立した項目にしたほうがいいかと思いますが、迷うところです。書き出すと長くなるとは思います。
6/24 10:24
そして平成3年11月26日、その日は自分の27歳の誕生日だったので、日付ははっきり記憶していますが、前の夜の電話で彼女に自宅に電話をかけることの許可をもらったのです。初めに電話をしたのは同年10月5日の土曜日の夜でした。
6/24 10:24
その11月26日のことに関しては、被告訴人多田敏明のことも絡んでくるので、独立の項目として書きたいと思います。
6/24 10:24
裏駐車場に関する項目はこれが2つ目だと思いますが、しばらくの間中断をして、他のことを書き、また独立の項目として記述を再開したいと思います。
6/24 10:44
<2014-06-24 火 10:09> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]
6/24 10:45
*** 被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克の事件への関与、果たした役割について
6/24 10:45
**** 裁判資料/平成4年/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日
6/24 11:05
<2014-06-24 火 10:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
6/24 11:05
自分のパソコンのファイルを探したのですが、ちょっと見つからなかったので、個人サーバで公開状態にあるものをコピーすることで、新たな記事を作成しました。次のブログ記事のタイトルとURLです。
6/24 11:05
裁判資料/平成4年/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト) | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://t.co/5EoXleCNYX
6/24 11:05
試しに一つ別のブログでページタイトルを取得してみましたが、やはりブログ名が左側になっていて区切りの記号も:になっています。 非常上告-最高検察庁御中_Bloggerのブログの方が前から使っていると思いますが、自分でカスタマイズをしていたのかもしれません。
6/24 11:25
普通、ページタイトルにブログ名が含まれることは多くないような気もしますが、そういうのもブログサービス毎の仕様になっているはずです。ブログサービスには編集の自由度の違いも大きいですが、Bloggerはカスタマイズ性も高いです。
6/24 11:26
Bloggerに関して難を言えば、APIでの投稿ができるものの、30件ぐらい記事を連続して投稿するとAPIでの処理を受け付けなくなることです。それを含め、総合的に判断した結果、私は数ある中からBloggerのブログをメインで使うようになりました。
6/24 11:26
「裁判資料/平成4年/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)」というタイトル名にしてありますが、被告訴人多田敏明の供述調書を文字起こししたものです。
6/24 11:26
元は警察官の手書きによる供述調書です。パソコンのテキスト文字だといたずらに改行が多いように見えるかもしれませんが、縦書の供述調書の内容に応じて改行を入れました。思い出せないぐらい相当前に作成したものだと思いますが、平成21年の9月以降かとは思います。
6/24 11:26
平成21年9月より前は、インターネット上でも供述調書の写真を公開していたように思うのですが、当時はマスキングもしておらず、そのままの状態で公開していたように思います。だとすればあるはずの写真ファイルなのですが、私の手持ちのパソコンでは見つからなくなっています。
6/24 11:46
家の中を探せば供述調書の現物は見つかると思うので、デジカメで写真を撮り直すことも可能ですが、内容重視ということで当面は予定をしておりません。
6/24 11:46
上記にスクリーンショットを用意しましたが、EmacsでさきほどのWebページを閲覧しながら、これから説明を書いていきたいと思います。
6/24 11:46
金沢西警察署において供述した、となっていますが、確か被告訴人安田敏から聞いた話によると、被告訴人池田宏美以外は皆、金沢西警察署に出向いてそこで供述調書の作成をしたということになっていました。
6/24 11:46
被害者AAさんがいなくなったので、パソコンの操作が出来ず伝票を手書きで書かなければならず、ものすごく忙しく大変な目にあっている、というような話でした。
6/24 12:07
供述調書の「一」によると「一昨年の八月」から市場急配センターに働いている、という話になっています。つまり平成2年の8月ということになるかと思いますが、市内配達が金沢市場輸送と同じ建物にあった頃には、確かに姿を見た記憶がありません。
6/24 12:07
平成3年の7月16日までは18歳だったということになりそうですが、高校を中退したとも聞いておらず、勉強は嫌いでまんじゅうつまり0点ばかりだったと自慢していたぐらいなので、高校には行っておらず中卒であると考えられます。
6/24 12:07
一度だけ、市場急配センターに来る前の仕事の話を聞いたことがありましたが、内装屋のような仕事をしていたと話していました。ちょっと具体性のある内容も含まれていたように思いますが、親方との関係について何か語っていたような気もします。
6/24 12:07
あえてそういう口ぶりをしたのかもしれませんが、その親方のような人物が、市場急配センターとも関係があって、その縁で市場急配センターに来たような話しぶりだったかもしれません。私から市場急配センターへの入社のきっかっけを聞くことはなかったと思います。
6/24 12:07
供述調書の「三」では、私の入社時期について昨年の4月頃と供述していますが、実際は6月の下旬だったはずで、けっこうな開きがあります。また、私が入ってきた当時、被告訴人多田敏明は免許停止中で、被告訴人安田敏のトラックに同乗して仕事をしていました。
6/24 13:27
私が市場急配センターに来る前から、被告訴人多田敏明のことは被告訴人安田敏からちらほらとは話を聞いていたとも思います。もともと被告訴人多田敏明が受け持ちだった内灘・高松コースを被告訴人安田敏がするようになり、それに同乗していました。
6/24 13:48
免停の原因らしい話としては、彼女と小松市の小松インターの近くのラブホテルに行き、その帰りに高速道路である北陸自動車道で事故を起こしたという話をしていました。ラブホテルを強調していたのも彼らしいと思いましたが、土砂降り雨の中で事故になったとも言っていたように思います。
6/24 13:48
車はフェアレディZで、それも新型だったような口ぶりでしたが、事故で廃車になったとのこと。単独の事故で免停というのもどうかとは思いますが、そういう関連付けで話をしていたと記憶には残っています。
6/24 13:48
同じく供述調書の「三」で、よく一緒に食事をしたとありますが、これは事実であるものの、缶ジュースやタバコ代を含め全て私のおごりでした。こだわるつもりはないですが、そういう事実です。
6/24 13:48
同じく「三」のなかに、「Aちゃん」とありますが、たしかに運転手というか社員の多くは、彼女のことを指したり呼ぶときに「Aちゃん」と言うことが多かったですが、被告訴人多田敏明に限っては「事務員」などと呼ぶことが多かったように思います。
6/24 14:43
私は一番早い方の段階で彼女とのことを被告訴人多田敏明に相談しましたが、そういえば一番最初だったのは被告訴人安田敏に話をしたことでした。9月の終わりか10月のはじめになると思います。ここでいう同僚は被告訴人安田敏を指していることは一応考えられます。
6/24 15:03
私から相談を受けるようになったのは「今年に入ってから」と述べているようですが、12月の中頃ではなかったかと思います。どの仕事から戻った時であったか思い出せませんが、市場急配センターの会社の前の方にトラックを停めていた時、その車の中で話をしたように記憶しています。
6/24 15:03
それは割と早い時間帯でもありました。22時とか23時という時間帯ではなかったかと思います。トラックは会社の正面に向けて縦に駐車していました。自分の大型車ではなく、被告訴人多田敏明がよく乗務していた4トン車であったような気もします。ウィング車です。
6/24 15:03
彼女に対する情報がほとんど入らなかったこともありますが、2つ違いの年下と年代も近いので、彼には相談をしていました。仕事で一緒に行動することも多かったのですが、それも被告訴人らの計画的な采配であり、偶然ではなかったと思います。
6/24 15:03
そもそも私が被告訴人多田敏明と個人的に話をするようになったのは11月のことで、被告訴人東渡好信が茨城県古河市の青果市場に連れてきたことがきっかけでした。その時に初めてじっくりと話をするようになり、割と親しい間柄になったのです。
6/24 15:04
記憶が曖昧になっていますが、ちょうど用事があって二階に上がるところで、二階に上がってすぐに誰かから被告訴人東渡好信の娘だと聞いたような気がします。被告訴人池田宏美の口から聞いたようにも思いますが、娘が来ているという程度の内容だったと思います。
6/24 15:24
そのあと一階に降りてもう一度、娘らしい女性の姿を見たという記憶はないのですが、この間に起きたのが被告訴人安田敏の工事現場突入でした。わざと突っ込んだ可能性が高いとうことで、突入ということにしています。
6/24 15:24
これは本来、被告訴人安田敏の関与として記録したほうがよいと思いますので、そのようにしたいと思います。
6/24 15:24
この項目の記述はいったん閉じておきます。
6/24 15:24
<2014-06-24 火 15:03> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]
6/24 15:24
**** 平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日
6/24 15:45
<2014-06-24 火 15:15> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
6/24 15:45
廣野さんが腹を立て
6/24 15:45
内容としては[[*裁判資料/平成4年/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日]]の続きにもなります。
6/24 15:45
たまたま被告訴人東渡好信の娘らしい女性の姿を見かけてすぐに 2階の事務所に上がり、たぶんそれからすぐのことであったと思いますが、被告訴人安田敏がその2階の事務所に入ってきました。トラックが動かなくなったというような話を始めたと思います。
6/24 15:45
なにか要領を得ない説明でしたが、会社の近くということですぐにその場に向かいました。その時点で外はすっかり暗くなっていたと思います。たぶん11月の中頃か、あるいは上旬のことなので割と遅い時間だったと思います。
6/24 16:06
外から戻ってきて被告訴人東渡好信の娘らしい姿を見かけた時点で、外は暗くなりかけていたような気もします。二階に上がると被害者AAさんの姿もあったように記憶しておりますが、はっきりした時間帯というのは記憶にありません。
6/24 16:06
説明がややこしくなるので、Googleマップを利用して見取り図のようなものを作成したいと思います。
6/24 16:06
普段通勤でも通っていた道路だとは思いますが、なにか側道の工事をやっていたような感じでした。交通の規制とかもやっていなかったと思うので、普通に車で通っていると工事をしていることも気が付かなかったと思います。
6/24 16:26
現場についた時にはすっかり夜という状態で月明かりもなかったと思います。周りには街灯のようなものもなかったと思うので、なにがどうなってトラックが動かなくなったのかさっぱりわからない状態でした。
6/24 16:26
被告訴人安田敏本人は、たしかトラックをUターンさせようとバックをしていたらタイヤがはまって動けなくなってしまったと言っていたと思いますが、そもそもそんな場所でUターンをする必要性も理解できるものではありませんでした。
6/24 16:26
かすかな記憶ですが、初めは被告訴人安田敏を含め3人ぐらいで歩いて現場に向かったように思います。どのような状態でトラックが動かなくなっていたのかも思い出せないのですが、かなり手こずる状態ではあったと思います。
6/24 16:26
しばらくすると割と大勢が集まってきました。多かったのは金沢市場輸送の事務所で麻雀をやっていたと思われるメンバーでした。細かいことは記憶が薄れているので思い出せませんが、10人以上は集まったと思います。
6/24 16:26
はまったトラックを引き出すのに活躍したのは金沢市場輸送の配車係兼社長だった被告訴人本恒夫でした。昔、暴走族がよく着ていた特攻服のような作業服姿であったことも印象に残っていますが、引き上げが成功する前後には、一時的な土砂降り雨が降ってきたのも印象的でした。
6/24 16:47
あの土砂降り雨だけは人為のなせることではないと思いますが、相当に激しい雨でした。ワイヤーをかけて別の大型トラックで引っ張ったように思います。雨は偶然と思いましたが、余りに手際が良かったので、その時点でも予定していた行動を実演したのかという考えも 浮かびました。
6/24 16:47
強い雨が降りだしたこともあり、引き上げが成功するとすぐにその場で人が帰って行きましたが、被告訴人安田敏は誰一人に対しても、お礼やねぎらいの言葉をかけることはありませんでした。
6/24 16:47
神妙にも見える態度で黙り、深く何かを考えている様子には見えていました。一般的な理解だと運転でミスをしたことを悔いているのかと思えるところですが、そうでもなさそうな気はしていました。
6/24 16:47
会社に戻ってから2階に上がり、流しやトイレがある間仕切りの前の辺りにいたのですが、長い時間考え事をしていた様子だった被告訴人安田敏が、口を開きぽつりと、「あの女、東渡の娘やってんなぁ」としみじみ感慨深そうつにつぶやいたのです。
6/24 16:47
挑発混じりの非常識な言動ですが、このあたりが本格的な始まりだったように思います。徐々に感覚が狂わされたようなところもあったかと思いますが、被害者AAさんのことでも否定的に挑発したり、人の心をかき乱すような発言、言動がありました。
6/24 17:08
「あきらめや」というのも呪文のような口癖として繰り返していましたが、つねに否定の一辺倒だったわけでもなかったです。具体性のある重要な発言なので、これも独立した見出しの項目にしておきたいと思いますが、手編みのセーターの話です。
6/24 17:08
被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんから、被告訴人安田敏がスピードを出して危険な運転をしているので、注意をしたほうが良いと言われるようになったのも、工事現場突入の前後だったと思います。あるいはもう少しあとのことであったかもしれません。
6/24 17:08
被告訴人松平日出男からも同じようなことを言われましたが、三人とも被告訴人安田敏には気を使った様子で、直接注意をすることはなく、私から注意をするようにやんわりと言ってきたのです。
6/24 17:08
12月になって普通に雪が降る時期になってからだったと思いますが、その時も被告訴人安田敏がスピードを出して危ない運転をしていると被告訴人東渡好信から言われた時だったと思いますが、被告訴人安田敏は吹雪の中、関越道をゆっくりと走っていると当然のことのように話していました。
6/24 17:08
これも同じく平成3年の秋頃だったと思いますが、被告訴人安田敏の出勤の時間が遅いとか連絡が取れないと、苦情のようにこの時も、被告訴人松平日出男や被告訴人東渡好信が私に言ってきたことがありました。
6/24 17:28
電話を掛けても確かにつながらなかったのですが、後で聞くと電話機のコードを差込口から抜いているという話でした。
6/24 17:28
ちなみに被告訴人安田敏の家というかアパートの電話機ですが、当時でもほどんど見かけることのない、手回しのダイヤル式の黒電話でした。妻となった彼女のアパートだったので、そちらの持ち物だったのかもしれませんが、変わっているとは思っていました。
6/24 17:28
腫れ物に触るという感じではなかったですが、被告訴人安田敏が非常識なふるまいをしても、直接注意するものはおらず、紹介者である私の方にどうにかしろとか、どうにかしたほうが良いという、話を持ってきていたのです。
6/24 17:29
工事現場の話でもうひとつ書いておきたいことがあるのですが、被告訴人安田敏ではなくその場にいた人物の話です。独立した項目にするほど強い関連性があるという判断材料もないのですが、気になる存在の人物であり、多少なりとも事件との関連もあるかと思われる人物の一人です。
6/24 17:29
やはり独立した項目として配置しておこうと思います。被告訴人安田敏に関しては、平成4年2月14日の白菜散乱の件として項目を立て、工事現場突入以降の言動とつながりについても併せて記述をしたいと思います。
6/24 17:49
<2014-06-24 火 17:15> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]
6/24 17:49
<2014-06-24 火 17:29> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
6/24 17:49
*** 事件の舞台となった市場急配センター株式会社と金沢市場輸送株式会社について
6/24 17:49
**** 新しい事務員を紹介予定だったという運転手について_平成26年6月24日
6/24 17:49
被告訴人安田敏が身動きできなくした大型トラックを引き上げた時には、夕立のような強い雨が降っていました。夕立と言ってもすっかり暗くなった時間帯です。雨は引き上げる前から降っていたと思いますが、引き上げに成功すると皆すぐにその場を立ち去りました。
6/24 18:10
私はその時、誰かと一緒に側にいたワゴン車に乗り込み、それですぐ近くではなりますが、市場急配センターまで送ってもらいました。誰の車かもわからなかったのですが、運転をしていたのは顔をよく知る人物だったので、ワゴン車はその人の車だったのだと思います。
6/24 18:10
その人は木村という名前で呼ばれていたと思います。今思えば名前をちょくちょく耳にする機会はありました。金沢市場輸送にいる時から姿は見かけていて、顔も知っていたと思いますが、その頃には名前も知らなかったと思います。
6/24 18:10
かなり前から顔は見ていたと思いますが、いつ頃からとなると記憶ははっきりしません。まだ市場急配センターの建物がなく金沢市場輸送に同居していた頃から、見かけていたような気もしますし、そうでもない気もしますので、その辺りの記憶はかなり曖昧です。
6/24 18:10
市場急配センターの事務所が出来てそちらに移転してからも、市場急配センターの運転手の姿は、金沢市場輸送の給油機のところで見かけることがありました。
6/24 18:11
そういえばその木村さん本人が、石川県加賀市の片山津温泉「ながやま」での慰安会の世話をしたものの、被告訴人竹沢俊寿に代払いしたお金を踏み倒されたような話をしていたことがありました。信じられないとんでもない人間だという話しぶりでした。
6/24 18:11
強面という風貌の人でもありましたが、普段はあえてそれを隠しているのかと思えるほど、地味な格好の作業服姿でまるで農家のおじさんという出で立ちでしたが、客室で麻雀をしているその時だけは、黒い革のチョッキを羽織り、ギャングかマフィアの要人にもみえるぐらいでした。
6/24 18:31
酒も入っていたのかもしれませんが、普段は無口なのに、割と陽気な感じでもあったと記憶しています。その時は近くで言葉を交わす会話に私が加わるようなことはなかったと思います。
6/24 18:31
年齢は60代にも50代にも見えたので、はっきりしたことはわからず、年齢の話を聞くこともなかったと思います。
6/24 18:31
割と早い段階で、コンパニオンの仕事をしていると聞きました。増泉とも聴いたと記憶しています。加賀温泉のホテルに派遣するようなコンパニオンの仕事だったと思います。
6/24 18:31
どちらかといえば金貸しにも見えるようなタイプで、お金に困っているようにはとても見えませんでしたが、運動でも兼ねていたのか運転手をしていました。それも社員ではなく、ポンコツの2トン車を持ち込みにして仕事をしているような話でした。
6/24 18:31
そのトラックは何度か見かけていましたが、相当かなりのポンコツにみえました。宇出津のK村さんや姫のNKさんが、同じく持ち込みで乗っていた2トン車もポンコツには見えていましたが、それと比較しても状態が悪いようにみえるトラックでした。
6/24 18:51
さきほど片山津温泉「ながやま」の慰安会について書きましたが、時期は平成2年の6月の後半ではなかったかと思います。これも一つの目安になっていますが、被告訴人浜口卓也が来る前だったと思います。いればいたはずの姿がなかったからです。それにいたらどうなっていたのかと思うこともありました。
6/24 18:52
配車係の一人だったYTの姿もその慰安会の時点ではあったように思います。あとになってラウンジのような場所で飲んでいて、イワシのダンプにも乗務していたSSと、ケンカになったとかケンカになりかけたという話を誰かに聞いた覚えがあります。
6/24 18:52
なんとなく7月にはYTはやめていなくなっていたという感覚があるのですが、同じく配車係の仕事をしていたFHも一緒にやめたはずです。そういえばFNの方は、多少なり被告訴人松平日出男と仕事上の付き合いもあったようで、年も近く気が合う関係だったことも考えられなくはないです。
6/24 19:12
2月の初めに福岡に行った時も、帰り荷はそのFNの関係でした。中西運輸商で一緒だった二人の人物とも、電話で話をする機会がありましたが、一人は九州の人でした。九州に駐在員かちょっとした支店をおいているような話だったと思います。
6/24 19:12
河北郡津幡町に会社がある運送会社だと聞いていましたが、今Googleで調べたところ、それらしい情報は見つかりませんでした。運送会社の名前も一部記憶がはっきりしなくなっています。
6/24 19:32
あれも平成4年の1月か2月頃だったと思いますが、北陸ハイミールでその会社の大型トラックを見ることがありました。その時の運転手ですが昭和59年に私が初めて金沢市場輸送に入社した時にいた運転手だったと思います。
6/24 19:33
言葉を交わすことはありませんでしたが、その人に間違いはないと思いました。彼は免許取り消し中で、私のトラックに同乗して指導などしていたことがありましたが、まもなくやめていなくなりました。
6/24 19:53
片山津温泉のながやまはホームページも見つかりました。数年前はテレビのCMでも見かけていたような気がしますが、そういえば最近は温泉旅館のCMというのもほとんど見かけなくなっています。
6/24 19:53
私が子供の頃は、一番良く見かけるようなCMが石川県内の温泉旅館のCMでした。バブル景気の崩壊で大打撃を受けた業界とも聞いていますが、数年前の一時期はちらほらとCMを見かける時期もあったかと思います。今はネット社会なのでテレビCMの必要性も低くはなっているのかもしれません。
6/24 19:53
金沢市場輸送での温泉での慰安会というのは、私が経験したので2回だけでしたが、いずれも全員参加型になっていました。それまでも希望者だけを募ってやってはいたようですが、ほとんどが麻雀好きのメンバーの参加だと聞いたこともありました。
6/24 19:53
ながやま、での慰安会の時点で、私は被害者AAの存在を意識していたように思います。彼女の姿はありませんでしたが、不参加なのかと考えたようにも思います。
6/24 20:14
金沢市場輸送の事務所で彼女の姿を見かけるようになって一月あるいはそれに近いぐらいの経過があったようにも思います。市場急配センターの事務員という意識はなかったようにも思うのですが、部分的にそのことは自分の意識の状態として記憶に残っています。
6/24 20:14
次も同じような時期ではなかったかと思いますが、翌年つまり平成3年のことです。その時の慰安会は同じ加賀温泉でも山代温泉であったと聞いたように思います。運転手以外の事務員や社長だけでの慰安会があり、それには被害者AAさんも参加したように聞きました。
6/24 20:14
被告訴人竹沢俊寿がその慰安会の時に、被害者AAさんに自分の車である2枚ドアのジャガーをやるとか言っていたという話も聞いたように思いますが、これは別の機会にも聞いた覚えがあり、彼女本人から聞いたようにも思います。温泉の時とは聞かなかったとは思います。
6/24 20:14
その話を誰から聞いたとなると、被告訴人安田敏から聞いた可能性が高いと思いますが、そういう情報の多くは、被告訴人多田敏明から聞いた話らしく、被告訴人安田敏もそのように話すことが何度かあったと記憶しています。
6/24 20:14
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