時刻は6月21日9時9分です。2,3日中断していたかと思います。どうしようか迷いますが、いったん区切りをつけて項目を別にしたいと思います。
6/21 9:32
<2014-06-21 土 09:12> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]
6/21 9:32
**** 市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになった行動_2014年6月21日
6/21 9:53
<2014-06-21 土 09:14> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]
6/21 9:53
被害者AAさんが会社裏駐車場の駐車を始めるようになったのは繰り返しますが平成3年11月30日土曜日の午後が始まりでした。記憶が薄れていますが、それが彼女の意思表示であり何かを訴えかける行動であることに、気がつくまで3日から長くて一週間ほど掛かったのではと思います。
6/21 9:53
車の駐車場所を変えたのと同時に、彼女は自宅の電話にまったく出なくなりました。平成3年11月25日の夜の電話では、初めて正式に自宅に電話をかけてくることを、「いいよう。ぜんぜんだいじょうぶや」と了承した上での行動です。
6/21 9:53
上記写真が市場急配センターの事務所建物と、その前の駐車場です。決まりとして告知があったわけでもないですが、常識的に事務員は会社前に乗用車を駐車していました。これは仕事中の用事で車を出入りすることも多かったからです。
6/21 10:33
特にAAさんの場合、パソコンのデータ入力で毎日、金沢市場輸送の事務所に行っていました。市場急配センターの事務所にはパソコンはなかったのです。
6/21 10:54
こまかく言えば平成4年の3月ころに、市場急配センターの事務所にパソコンが入り、業者のような人がAAさんに説明をしていたことがあったのですが、導入には至らなかったのか、そのあと会社でパソコンを見ることはなかったと記憶しています。
6/21 10:54
平成3,4年当時のパソコンですから現在のものとはずいぶんと違っていますし、一般には馴染みのないもので、どれぐらいの値段がするものかも聞いたことがなかったですが、相当高額であったとは思います。
6/21 10:54
金沢市場輸送の事務所には平成元年ころからパソコンはあったと思います。あるいは平成2年に入ってからですが、いつの間にかあったという記憶です。
6/21 10:54
12月の初めから4月の初めころまでと聞いていましたが、初めと終わりの方の時期はイワシの漁獲量も少なく、金沢市場輸送ではダンプだけの仕事になっていました。フル稼働は12月の下旬から2月いっぱいではなかったかと思います。
6/21 11:14
3月中もまだダンプ以外のイワシの仕事はあったような気もしますが、余り記憶もはっきりしません。まだそれなりに忙しい時期ではあったと思いますが、私はイワシの仕事から離れていたようにも思います。
6/21 11:14
4月になるとダンプでもイワシの仕事が入るのは稀で、仕事自体がとても暇になって残っているのはごく一部だったと思います。ちょうどそんな頃だったと思いますが、会社で暇を持て余す小林健一の姿をよく見るようになりました。
6/21 11:14
平成2年の4月と思われる時期のことです。私は石川88の108号という冷凍機付きの保冷車に乗務していました。冷凍機付きのナンバーは88になります。長距離乗務です。
6/21 11:14
当時の行き荷は、トナミ運輸や日通の雑貨が多くなっていたと思います。夕方6時とか7時からのホーム作業で積み荷を始めるという仕事でした。
6/21 11:14
午後は会社で時間を潰していることも多かったと思いますが、そんな時、何度か小林健一と近くのラーメン屋に行くことがありました。パチンコオークラの近くにあるまるで屋台のような小さい建物のラーメン屋でした。店内はカウンターのみで8席ぐらいあったのかなと記憶しています。
6/21 11:35
今思えば30代ぐらいだったのかと思いますが、割と若い感じの女の人がやっている店でした。私もちょくちょく利用していましたが、他の運転手も行っていたと思いますし、昼から酒を飲んでいるような人もいたかと思います。
6/21 11:35
Googleストリートビューでスクリーンショットを撮ったのが上記の画像です。屈折というか歪みを感じますが、現実に近い撮影かと思います。
6/21 11:35
ここは金石街道から中央市場の方に入ってすぐのあたりです。左手にパチンコ屋の駐車場とその出入口が見えますが、平成4年当時は道路と駐車場のつながりがなく、何か別の建物がたっていたように思います。
6/21 11:55
この画像の道路の左手に2階建てのアパートのようなものが見えますが、小さいラーメン屋があったのは、だいたいその辺だったと思います。この中央市場に向かう道路に面していました。
6/21 11:55
もう少し先に行くと左手に「市川タイヤ」があって、そこを左折すると30メートルぐらいでパチンコオークラの駐車場と、右折してすぐに金沢市場輸送の会社がありました。
6/21 11:55
「市川タイヤ」に関しては書いておきたいことが2つあります。ひとつは被害者AAさんが自分の軽四で私を迎えに来てくれたこと、もう一つはミールの清水倉庫での被告訴人安田敏のタイヤの爆発問題です。そういえば工事現場突入の件もまだ中途でした。
6/21 11:55
私は今まで「清水倉庫」と書いてきたように思いますが、Googleマップで調べてみたところ、「水島倉庫」が正しいのではと思います。8号線バイパスで手取川よりは手前の辺り松任市の外れと記憶していましたが、水島という地名を見つけました。そういえばという気もしました。
6/21 11:56
小林健一とパソコンの話からずれてしまいましたが、小さなラーメン屋で何度か一緒に食事をする頃になると、彼はしきりに会社に対する不平不満を口にして語るようになりました。それは被告訴人松平日出男個人に向けた不満や批判とも言える内容だったと思います。
6/21 12:16
被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長でしたが、小林健一も金沢市場輸送ではなく市場急配センターの社員として、金沢港のイワシの運搬の仕事に来ていると聞いていました。
6/21 12:16
そもそもイワシの運搬は市場急配センターの仕事で、ダンプやトラックでの運搬は金沢市場輸送にやらせているという契約になっているとか聞きました。茨城県古河市の山三青果の仕事も初めは同じように聞いていたと思います。
6/21 12:16
やたらと被告訴人松平日出男や会社の不満や悪口のようなことも口にしていたと思いますが、なにか話に具体性は感じられず、真剣さも伝わらなかったことが印象に残っています。
6/21 12:16
そんな不満の一つに、小林健一は、他に誰も出来る人がいないので頼まれて事務所のパソコンのデータ入力をやらされている、というものがありました。
6/21 12:16
なお、小さなラーメン屋でも小林健一は昼間から、焼酎を注文して飲んでいたような気がします。当時はまだ焼酎というのは一般的ではなかたっと思いますが、すでに酎ハイというのは若者の間にも広まっていたと思います。
6/21 12:37
むしろ焼酎というのはといえばレモンジュースのような炭酸飲料で割ったイメージが強かったので、そうでないスタイルで焼酎を飲む、小林健一の姿というのも私には珍しく映っていたのです。
6/21 12:37
その小さなラーメン屋では、銅かアルミの取っ手がついた割と細長いカップで焼酎を出していた記憶もあるのですが、それも私の目には他に見たことのない珍しいものだったと記憶しています。
6/21 12:37
同行者を含め、その小さなラーメン屋で焼酎を注文していたのは小林健一以外には考えられないのですが、確実な場面の記憶というのは残っていません。
6/21 12:37
より鮮明に記憶しているのは、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車に、大きなペットボトルの焼酎がおいてあり、小林健一がそれを飲んでいたことです。コップや水のようなものを見た記憶はないので、ストレートでラッパ飲みをしていたのだと思いますし、そんな場面も微かに記憶にあります。
6/21 12:37
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