5月13日に投稿したなう | 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(金沢地方検察庁御中)

 殺人未遂事件として木梨松嗣弁護士、長谷川紘之弁護士を金沢地方検察庁に刑事告訴手続き中 (さらば弁護士鉄道\泥棒神社の物語)

 市場急配センター(石川県金沢市)の組織犯罪と加担、隠蔽をした弁護士らの物語(事実)。



時刻は5月13日9時52分を過ぎたところです。昨夜も夕方ころに記述を中断して、ほとんどなにもしないで寝てしまいました。書くことが沢山あるのに集中力も足らないようです。夕食もまともにとらず、袋に入った刻んだキャベツを少しと、メンチカツを一つ食べている間に寝ていました。
5/13 10:17

その直前まで被告訴人安田敏と岐阜県海津町で山下工務店の仕事をしながらライスセンターの平屋の家で生活していたことも書いていると思います。
5/13 10:40

なお、そのライスセンターのの仕事というのは本来、9月から12月の10日ころまでと聞いていました。米の収穫時期です。ただ、ライスセンター側の要望があって、ライスセンターの仕事が始まる前の時期にも、工務店の仕事を手伝ってほしいという条件が出ていたと安田敏から聞いていました。
5/13 10:40

被告訴人安田敏が初めにその海津町のライスセンターの季節労働というか出稼ぎの仕事に行ったのは、昭和60年と考えられます。安田敏が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていると聞き、金沢市場輸送の事務所の前まで行って声を掛けたところ、やめて岐阜に行ったと聞きました。
5/13 10:40

これもすでに書いていると思いますが、窓から顔を出してそう教えてくれたのは、金沢市場輸送で配車係をしていた北浜太一の弟でした。「おっさま」と呼ばれることが多かったようにも記憶しています。
5/13 10:40

彼は私が昭和59年1月に初めて金沢市場輸送に入社した頃、大型車に乗務して長距離を走っていましたが、長期の免許停止が決まっていたらしく、すぐに免停になって、荷物の積み込み作業などやっていました。
5/13 10:40

ちょっと思い出したのですが、北浜太一の弟の場合も、免停ではなく免許取り消しだったような気がします。その後、免許を撮り直して蛸島で4トンの保冷車を買って白ナンバーで魚を運んでいるというような、噂話のようなものも聞きましたが、これは平静1年頃のことかもしれません。
5/13 11:03

私が昭和59年の1月に金沢市場輸送に入った時点で、北浜太一の弟は、3,4年かけっこうな年数、金沢市場輸送で運転手をしていると聞いていたように思います。記憶は薄くなっていますが、それでも2年以上とは聞いていたように思います。
5/13 11:03

その辺りから逆算しても蛸島のTSさんが被告訴人安田敏と同じく石川県立水産高校漁業科を卒業して金沢市場輸送に入社したと聞く、昭和56年の時点でも同じ金沢市場輸送にいた可能性はあるかと思います。
5/13 11:03

まだ書いていないと思いますが、その金沢市場輸送に入社したてのころの蛸島のTSさんは、当時の内浦町越坂の出身と聞くKSさん(以降、越坂のKSさんとも書きます。)と、一緒にトラックを走らせていたと聞いたことがありました。
5/13 11:03

私もごく最近になってたまたま知ったのですが、本来の小木というのは思っていたより限られた範囲になっているようです。小木駅のあったあたりが市ノ瀬であることは知っていましたが、もっと小木の街に近いところも市ノ瀬になるようです。
5/13 11:04

2014-05-13-104213_石川県鳳珠郡能登町小木 - Google マップ.jpg http://t.co/3UyJw4anJY
5/13 11:25

小木は松波同様に、平静17年だったと思いますが、石川県珠洲郡内浦町から宇出津や姫、真脇、鵜川と同じ能都町、そして柳田村が合併されて鳳珠郡能登町になっています。
5/13 11:25

2014-05-13-104912_石川県鳳珠郡能登町越坂 - Google マップ.jpg http://t.co/MVDXBeLqeU
5/13 11:25

次が能登町越坂のGoogleマップの地図ですが、今度は小木との比較対象をわかりやすくするため、航空写真を使いました。越坂は数件のホテルと漁村があって、私も近年知ったことですがキャンプ場もあるようです。
5/13 11:25

越坂は市之瀬と同じく九十九湾に面していますが、遊覧船の乗り場があるのも市之瀬のほうです。小木駅もその市之瀬にありました。越坂の子供は例外なく小木中学校に通っているとも聞いていました。地理的にも近いですし、地元でも小木の一部のような感覚でいる人が多いのではと思います。
5/13 11:25

新潟市内方面から上越市内に向かっていると右側にある店でした。小さな店で本来はトラックが停められるような店ではなかったのですが、国道沿いの路肩に寄せて駐車していました。どちらかが脇に駐車をしていて、見つけたほうが後で店に入ってきたように思います。
5/13 11:52

それは保冷車の箱に「中西運輸商」と大書きした2台の10トン保冷車のうちの1台でした。その保冷車には私自身昭和62年の3月ぐらいに、一時乗務したこともありました。
5/13 11:52

2台はどちらも日産ディーゼルのトラックでしたが、1台は改造車で10トン車にトレーラーのエンジンとミッションがつけてあるというトラックでした。ギアは10速とも聞いていましたが、ギア比が低いため最高速度が80キロとか90キロしか出せないとも聞いていました。
5/13 11:52

保冷の箱の方も通常よりかなり補強した作りになっていると聞いていましたが、中が丸く膨らんでいたような記憶もあります。
5/13 11:52

それは中西水産輸送の社長ならではのこだわりで作られたトラックでした。主に宮城県の石巻港から養殖ハマチ用の餌(たんにエサと呼ぶことが多かったです。以降もそのように)を四国の宇和島市や九州の大分、宮崎、鹿児島の養殖場のある場所に運ぶ仕事のための特別仕様のあつらえでした。
5/13 11:53

今はどうかしりませんが、当時、石川県の港から大型車でまとまった鮮魚を運ぶのは、例年6月から7月ぐらいの間の正味一ヶ月もなかったぐらいの期間で、それもスルメイカでした。最近人から聞いた話ですが、漁をする船も九州や東北から集まってくるそうです。
5/13 12:15

富山県氷見市に掘安という小さな運送会社があって、鮮魚を運ぶ会社でしたが、被告訴人本恒夫の傭車として金沢市場輸送の仕事をすることが多く、たまに仕事をもらって氷見港から魚を運ぶこともありました。東京が多かったですが、九州に行ったこともありました。
5/13 12:15

この傭車というのもひとつのキーワードですが、中西運輸商もその傭車を使って仕事を差配するのが中心のような会社でした。前にも書いているはずですが、自社のトラックの運転手は中西運輸商ではなく、中西水産輸送の社員だと聞いていました。なにか税金対策の目的だとも聞いていました。
5/13 12:15

昭和59年ころというのは社会全体としてもまだ不景気な時代で、雇用の条件とかも厳しいものがあったと思います。仕事内容でも経費削減のため高速道路の使用が大きく制限されたり、遥かにきついところがありました。加えて未開通の高速区間も多くて道路事情遥かに悪かったです。
5/13 12:15

関越道の関越トンネルが開通したのも昭和60年ころだったと記憶していますし、昭和59年の時点では富山県の朝日インターから新潟県の上越インターまでの高速区間がなく、国道8号線を通るしかない上、親不知付近ではなにかあったときの迂回路もありませんでした。
5/13 12:16

トラックの性能自体、現在とは比較にならないほど劣っていたと思います。4トン車でも昭和59年に私が乗務した頃の古いトラックというのは、昭和60年当時の新車に比較してもずいぶんと性能に違いがありました。
5/13 12:38

トラックのメーカーによる個性的な違いというのもありましたが、イスズ車はブレーキが強く、日野のトラックは弱いというのもありました。4トン車でも重量を積んでブレーキを踏んでいると焦げ臭くなって煙が上がり、とても危ない思いもしたものです。
5/13 12:38

10トン車の場合、ブレーキはエアーになっていましたが、重量を積んで余計にブレーキを踏んでいると、コンプレッサーのエアーがなくなり、ブザーが鳴るとともにブレーキの効きが極端に悪くなって、とても怖い思いをしたものです。
5/13 12:38

エサなど30トンも荷物を積んでいると、下手にブレーキが効き過ぎるのも恐ろしいことで、急ブレーキを掛けると保冷車の積み荷が箱を突き破って運転席(キャビンとも)に雪崩れ込んできて、運転手が圧殺される事故もあると聞いていました。
5/13 12:38

なお、丸太をワイヤーで留める木材の運搬の場合、そういう危険ははるかに高くて、死亡事故も多いとも聞いていました。現在では当時のように丸太を山積みにしたトラックというのも規制が厳しくなって走ってはいないのかもしれないです。
5/13 12:38

今はどうなっているのか知りませんが、平成3年の11月の終わり頃にも私は名阪国道を走ったことがあり、そのころも反対車線は急で長い下り坂が続き、止まるような超低速で坂を下る大型保冷車を見かけていました。
5/13 13:07

かつらぎ農協からミカンを積んで帰るのに時間帯的に近畿道辺りが渋滞しているかと思って、試しに西名阪、東名阪を走ってみたのですが、明らかに遠回りという感じで、それ以来は素直に近畿道を通って名神高速から戻っていました。
5/13 13:07

その時は関ヶ原インターから名神高速に乗ったのだと思いますが、北陸道に向かう米原ジャンクションの手前に伊吹パーキングエリアがあって、そのパーキングの公衆電話から被害者AAさんの自宅に電話を掛けたのです。
5/13 13:07

平成3年11月26日の夕方遅くには輪島のHさんと被告訴人多田敏明と一緒に会社を出発して北陸道に乗り、福井県の武生インターの近くのサービスエリアで落ち合い、そのあと私は大阪の市場に向かいました。馬鈴薯を積んでいたはずです。
5/13 13:07

翌日にはかつらぎ農協でミカンを積んだはずで、この日だとすると11月27日の夜にAAさんの自宅に電話を掛けたことになります。時刻は19時半ころだったと思います。
5/13 13:07

なお、今、武生インターの近くのサービスエリアをGoogleマップで調べたのですが、南条というサービスエリアがありました。そういえばそんな名前だったかと思ったのですが、武生インターの手前にあったと記憶にあるサービスエリアが、武生インターの先の位置になっていました。
5/13 13:37

改めてGoogleマップを見なおして気がついたのですが、手前に当たるインターは武生ではなく、今庄インターでした。国道365号線に通じるインターということは記憶にあったのですが、確かに武生の街からはだいぶん離れていました。
5/13 13:37

近道ではなかったですが、たまに気分転換で武生市から国道365戦を走って山越えをし琵琶湖の近くの国道8号線に出ることがありました。Googleマップで確認したところ、木ノ本インターのことも思い出しました。ずっと長い間忘れていたのに、スーッと自然に思い出した地名です。
5/13 13:37

% cal 11 1991というLinuxのコマンドで確認したところ、平成3年11月27日は水曜日になっていました。これも正確性を担保するためコマンド実行のスクリーンショットを撮っておきます。
5/13 13:37

電話を掛けた時、彼女は少し困ったような様子ですぐに電話を切ろうとしていました。今から出かけなければならないと言っていたようにも思えます。
5/13 14:12

数日前の25日の夜の電話では、初めて電話を掛けてきても構わないというか、「だいじょうぶや」という返事をもらっていたのにです。この平成11月25日のことについても詳しく書いておく必要がありますが、日付をよく覚えているのは自分の誕生日の前の日ということもありました。
5/13 14:12

そしてその伊吹パーキングからの電話を最後に彼女はまったく自宅の電話に出なくなりました。次に電話に出たのは年が変わった平成4年1月12日の日曜日の夜のことでした。これも日付をよく覚えているのは、片山津温泉「せきや」であった泊まりがけの新年会の翌日のことであったからです。
5/13 14:12

地理的なことはさほど重要ではないと思いますが、地理的な位置関係も分かっていた方が理解も進むかと思うので、Googleマップでルートを表示してみました。伊吹パーキングに行った時は、三重県の桑名市から関ヶ原インターを経由しているはずかと思います。
5/13 14:46

2014-05-13-140409_Googleマップ 和歌山県かつらぎ町~滋賀県伊吹パーキング.jpg http://t.co/ag2hlLXOG3
5/13 14:46