人を殺し、修道院兼教護院に逃げ戻った青年・朧。冒涜の限りを尽くすことこそ、現代では神に最も近く在る道なのか。戦慄の問題作。
(「BOOK」データベースより)
読んだきっかけは、今年の柴田錬三郎賞受賞作「日蝕(ひば)えつきる」。
そもそも自分は、怪我とか、血とか、腐敗とか、その手の肉体的な生々しい描写は苦手で、胸が悪くなる。「日蝕えつきる」も読後感は最悪だったのだが、「臭いけど癖になるくさやの干物」みたいな感じで、いったいこの人が世に出た芥川賞受賞作はどんなだったのだろうと思い、つい手に取ってしまった。
やはり読後感は、良い意味でも悪い意味でも、最悪だった。
芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」も、案の定、同じような系統の作品で、「日蝕えつきる」から救いのなさを少し差し引いた程度の印象、エログロな描写も「日蝕えつきる」ほどの極みには達していないものの、かなり気持ち悪いものがあった。
金原ひとみさんの「蛇にピアス」もそうだったが、胸が悪くなってじっくり読めないような作品が時々芥川賞を受賞する。
主人公は修道院兼教護院で育った「隴(ろう)」。一旦修道院を出たものの、娑婆で殺人を犯し、逃亡先として半ば治外法権の修道院に舞い戻ってきた。そこは相変わらず欺瞞に満ちた神の国だった。修道院に付属する農場で働くことになった彼は、修道士の男色の相手をして弱みを握り、暴力で仲間を従え、シスターやシスター見習いを相手に昼夜を分かたず快楽を貪るなど、冒涜の限りをつくす。
神とは何か、神はいるのか、みたいなことが全編のテーマになっているであろうことは分かるのだが、「口に石を入れて殴ったら頬に穴が開いた」とか、「袋が破れて白いたまが飛び出た」とか、蛆とか、糞尿の匂いとか、とにかく描写がグロすぎてじっくり読めず、テーマを落ち着いて考えるまでには至らなかった。
第119回芥川賞だから98年の受賞、小説の中の時代設定は戦後まもなくのようだが、書かれたのは20年ほど前、意外に最近である。選者の誰がこの作品を押したのか興味があったので、当時の選評を探してみたが、果たして石原慎太郎氏が絶賛していた。
「まさに冒涜の快感を謳った作品で、主人公の徹底した、インモラルではなしに、ノンモラルは逆にある生産性をさえ感じさせる。」「文学こそが既存の価値の本質的破壊者であるという原理をこの作品は証そうとしている。」
なるほど、絶賛した割には、深いような浅いような、分かったような分からないような選評ではある。
