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10歳の時に、父親からレモンの木にたとえた家訓を伝授され、おとなになって、なるほどと思う歌~~~、多分。でも、今の若い人は、PPMじゃなくて、フールズ・ガーデンの「レモン・トゥリー」を歌うらしい。

 

 

今日は、年に一度のお墓のヨッコの日。日曜日が命日になったことがあったっけ? 日曜日の朝って、渋滞で何かあってはいけないせいか、府中まで、数台の護送車の後ろを走っておりました。

 

やっぱり、去年より今年は暑くない! でなけりゃ、私がより冷え性になったのか。着て行った服装で分かります。去年はフレンチスリーブ、今年は七分丈。広い墓苑に吹く風は涼しくて、お線香が燃え尽きるまでの2時間、一度も暑いとは思いませんでした。

 

口の悪い私は聖霊降臨会か?って言うんですが、同級生のシスターが来い来いと誘う昨日の黙想会で、マタイの11~30を読んだせいか、私はここで「休ませてあげよう」と言われて休んでいるような気が致しました。私は絶対に!日に焼けてはいけない病人ですので、ずっと八畳近くある東屋の中からお墓を眺めながら、ゆっくりした時を費やし、そのうち私はここで寝てくんじゃないかしら。ウグイスがケキョケキョと鳴いてうるさいくらい。お墓のヨッコのご主人は、秀才で立派な人だから、こんなに環境の良い墓地に入れられて、毎年、いい場所だと思います。

 

今日は「父の日」だから、父親のことを考えようと思いましたが、お墓のヨッコの父親と、父子家庭になったご主人と、父親としての姿が頭をよぎって、人間のふがいなさとか、意気地のなさ、そんなものが自分にもあることが悔しくて、そんなことをいとも簡単に潜り抜けていた時のほうが、私は多くを学び、もっと謙遜だった気が致しました。

 

彼女が亡くなった時、私はマドリッドにいて、ちょうどシエスタの最中でした。姉からの電話で急いで帰国しても、お葬式には間に合わず、夜汽車で着いた転勤族夫婦の転勤先で、ハムエッグかなんかの朝食をごちそうになり、なんだかんだで、東京に戻る時、駅まで送ってもらうついでに葬儀を執り行ったお寺にお金を払いに行くのに私も付き合いました。彼女の父親も一緒にいたのだけれど、足りなかったら払ってあげるつもりでもあったのか。

 

そこの住職が、領収書を書きながら、残された子どもをご主人がひとりで育てるのは大変だから、里子を欲しがっている子どものいない夫婦がいるから紹介したいと言い出した。私は我が耳を疑った。彼女の夫は、悔しさに唇をかみしめている。なのに、彼女の父親はへらへらと笑っている。この人は、いつの場面でも、こうやってへらへらと笑うことでその場をしのいで来たのだろうか。私は怒りを抑えることが出来ず、ご主人にはお母様や手伝ってくれる人がいる、私だって手伝う、あなたが心配したことではないとまくし立てた。住職は、あなたにはお子さんがいないのかと聞くので、おりますとはっきり言い、それが何か? 住職はようやく黙った。

 

今年の春のことだけれど、お墓のヨッコのご主人の弟さんが「TVタックル」でしゃべっているのを、偶然、観てビックリ。地域の住民代表としてインタビューを受けていて、ああ、まだあそこにご実家があるのだと分かりました。