昨日
良し悪しについてはノーイメージだけども
いろいろ刺激が多くて、感情も心も魂も体も脳ミソも、久しぶりに大いに揺さぶられて、すっかり疲れきってしまった、そんな帰り道。
朝、宇宙の源、魂の故郷を、瞑想の中で見ていたときに、非常に印象的に目に映った、大きな透けた白い満月、
それと非常によく似たまん丸い大きな月が、
現実の地球の、私の家への帰り道、橋の上に差し掛かったときに、なぜかたまたま左後ろを振り返ったら、えっ、と思うような感じに目の飛び込んできました。
引き込まれてじっと見ていたのと
疲れきっていたのと
父の日だよねと重い瓶ビールを手に持っていたのとで
スマホなんか取り出すことは頭になく、写真は撮ってありませんが
(残念な気もしますが、ああいうものはスマホのカメラなんかでは見た通りには写らないのだから、別にいい。)
月なんかしょっちゅう見ているようで
昨日のは、なぜか私の中で強烈に「え?」っと印象的に感じた月だったので
寝るまでボンヤリと、頭に浮かんでいました。
やるべきことをやって、もうほとんど朦朧と意識を失うような感じにようやく横になり、急ぎの連絡なんか無いかな?と最後のスマホチェックをと開けたら、どこからだったろう?この記事が入ってきました。(もう読めない、と、開いたまま寝落ちし、朝起きたらまだこの画面だった)
(↑今日私の書きたかったことのkeyとなる内容がほぼ書いてあるので、是非ご一読下さい。)
射手座で木星とお近づきの満月。
あれは、そういう月だったのね。
昨日あったこと、昨日目や耳にしたことと共に
ああ、またかと
若干追い詰められた気分になったことは正直否めません。
私が勝手に気にしているのだと言ってしまえばそれまでですが、気になるのも自然なら、それはそういうことなんでしょう。
上の記事にも書かれていますが、今年(去年の終わりから)は、木星(拡大、発展)が射手座に滞在する年。
そして、私のMC(占星術、ホロスコープで出てくる、社会における自分の生きざまの頂点、目指していく場所)は射手座なのです。
今年、私は勝負なのです。
知ってるくせに、それに対して恐怖に近いプレッシャーを感じてしまう自分に、追い詰められてみたり、「いやいや追い詰められる必要なんかないさ、気楽にやってるのが一番近道なのさ」などと振る舞ってみたり(そう努力してみたり)、その実、元来の性格上、気楽にするのが超苦手な私、無理して気楽にしようとしている(努力って言葉がもうなんか無理してる)おかしな矛盾(笑)に気がついたりして、
ぐるぐるだな、なんて、自分にあきれて。
実はほとほと、うんざりしてた。
勝手に、プレッシャーに押し潰されそうになってた。
そんなに嫌だったら占星術なんか無視したら良いじゃないか。
しかし、そんなの「えっ!?何言ってんの?」です。
何を信じるのなんか、自分の好き勝手。
それを疑い出したら
自分の勝手にしていい「好き」を疑い出したら、自分なんか無くなってしまう。
居場所も何も
「好きなこと」イコールその人自身じゃんか。
「過去生からの思い込み」なんて、手放しちゃえばいいのなんか知ってるけれど、実際しがみついてるのも、簡単に手放せないのもそれなりに私なんだよねと、
まさに「自由の刑に処せられている」。
自由であればあるほど、
全てが自分次第であるほど、
すごく軽くて、同時にすごく重い。
自分がやるしかないということは
超絶自由で気楽で安心なのと同時に、
真逆なのにまったく同時に、
超絶責任重大で自分しか居ない孤独と恐怖。
きっと大昔、自由に感じたことを発表して酷い目にあった記憶があって、魂に引っ付いているのでしょう。
しかし、うまく小出しにしたり、様子見しながら、安全を探りながら、依存も上手くかわしながら、時には隠し、出せるときは出して、それでも諦めずに、生きている限り自分を貫き続けるという練習を
今生でも(今生でこそ)やらなきゃいけないんだろう。
昨日耳に入ったメッセージ
印象的だったことを、3つ、書き留めておきます。
🐝①🐝
ジャングルが山火事になったとき、そこを住み処にしていた小さなハチドリ(ホバリングしながら飛べ、細いくちばしで花の蜜を吸う小さな鳥。)が、近くの川だか湖だかの水をくちばしで吸ってきては、火事の山に撒く、ということを、みんなに「無駄だよ」と馬鹿にされながらもやり続けた、という話。
無駄だろうが何だろうが、自分は自分の大切な住み処を守るったら守る、という、自分の在り方、自分の姿勢、望みを、貫き通す。今自分に出来ることをやる、可能か無駄かとかは置いといても、とにかくやる。
こんなけなげな小さいハチドリが可愛くてたまらなくて、涙が出ました。
これで結果がどうなろうと、奇跡が起ころうと起こるまいと、結果に関係なく、今私に出来ることをとにかくやるという意志をはっきり持つ、これが生きるということ、今生で何をして過ごしますか?ということなんだなあと、思いました。
(結果に関係なく)
これが結構ネックなんだなと。
「結果が伴わないのは嫌だ」と、私なんかは思ってしまいますが(太陽山羊座なんで、社会に実際に役立つこと、結果を残すことを重要視する)これ自体は別にいけないことではない、ただ、その特徴を、活かすならともかく、自ら足枷に使ってしまってはいけないよなあ、もったいないよなあ、とは、感じました。
(結果に関係なく)←大事なんだな。
(最初からどうでもいいとして行動するのとは違う。努力はしつつも、最終的にどっちに出るかにはこだわらないということ)
🌱②🌱
「小さな一歩ずつでも、自分がこの世に何ができるか?それを考えてやっていく」
🌼③🌼
そのためには、結果を気にしないこと、どっちでもいいんだと捉えておくこと、気楽でいること。(出来るか出来ないか、成るか成らないかに重点を置くのではなく、自分の立ち位置、今ここに立っている私の立場はどこなのかを、自分ではっきりわかっていること、私がどこに立っているのかを知っておくことではなく、「どこに立たされているのか」ではなく、「私はここに立つのだ」と、はっきり意志を持っていること、自分の意志に、気づいていること、意志とはイコール、「何に、どこに、ワクワクするのか?」ということ)
「ミディアムもチャネリングももうやらないっ! 自分で感じることはしても、もう絶対人には話さないっ、変な風に思われるし、真意は伝わらないし、都合良く曲げて捉えられるし、変に利用されるし、依存されるし、面倒くさい! そもそもこれは私の感性に過ぎないとしか言えず、それは他人に証明することなんかできない。もう面倒くさい、人にも関わりたくない、誰にも話なんかしたくない、どうせ通じない。安全に生きていたかったら、人にはこんなこともう絶対話さない、皆それぞれ自分で自力で辿り着いて掴んで、各々勝手に進化したら良いじゃないか!」
っと、強烈に発した昨日。
その途端。
すぐさま「はい、違うよー」と
静かに、そっと歌うように、静かに自然に、上が伝えて来てくれた。
音や言葉や、形や芸術を通して。
私の抵抗をできる限り低くする形をとって。
私ができるだけ聞きやすく受け入れやすい形をとって。
神様ってすごい。
工夫の仕方がすごい。
さりげなさがすごい。
どうしても伝えたいことは
形や力加減を、こうやって工夫して、相手に合わせる工夫の仕方で、「なんとしても」伝えるんだな。
やり方はやんわりゆるいけれど、その「伝えたい」という意志は鉄の意志。
何をどう思われても、できうる限り最大限の工夫をして、やるだけやる。
でも、結果は相手に委ねる。
神様は、たとえ、ここまで教えてもらっても私がサボって動かなかったとしても、バチを与えるということはなさらないだろう。ただ、わたしが自滅というか、残念な想いを後でするのは私なだけだろう。自分がそう思うなら。自分自身の自責の念や後悔が湧いたとき、私が勝手に、悲しむのだろう。成ることが成らないのは、他の人や神様には関係なく、私の選ぶ道のひとつでしかないのだろう。
すごいものを見せられました。
神様ありがとう。
私はあなたから委ねられました。
私もあなたに委ねます。
自分の立ち位置。
自分のコンパスの軸を置く場所を
ワクワクする地点を
常に気づいているようにします。
まだまだ修行が足りませんでした。
いつも導いてくださり、感謝します。
信頼のおける
私の中に居られる、実はこの私とイコール繋がっている
「あの源」神様、SOMETHING GREAT。
ありがとうございます。
※追記※
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