思っていることを「書く」ことは、私にとってはとても大切なことらしい。

いろいろなセッションで言われるし

カードリーディングにも
天使との交流でも
自動書記でも
預言カフェでも
しょっちゅう言われる。

仮に、それらの信憑性をさっ引いたとしても

こんなに何回も目にするのは

そして実際、本当に時おりだけれど

「書いてくれたことに対してありがとう」というようなことをお聞かせ頂いたりすると

私が嬉しいとかよりも

「ああそうか、この方は私の書いたものを読まれて、ご自分の中のことを、そんな風に解釈して片を付けることができたんだ、なら良かった」と

「その人が良かった」と

そんな風に思えるのです。


だから今日は、思っていたことをまた書いてみます。

これはずっと、書こうと思って書かないでいたことです。

言い訳みたいでかっこわるいし、
いつか気持ちが変わるかもしれないから
それまでは知らん顔して言わないでおこう(かっこわるいから)と、思っていたことです。


それは「私が何故今、ミディアムシップセッションの活動をしていないのか」についてです。


言い訳かもしれないけれど

単なる怠惰と言われてしまえばそれまでなのかもしれないけれど

いろいろ悩むけど

細かい本当のところは(本来あるべき姿や正解というものがあるのだとしても)よくわからないけれど

平たく言えば「嫌なものは嫌」というところ。



けれど、他のミディアムさんたちがどう思って活動を続けておられるのか

それでも続けておられるミディアムさん達には、その勇気に、本当に敬意と拍手しかないのだけれど

でも、申し訳ないけれど、
私は今はそれに「憧れはしない」。

羨ましいとも思えない。

それがなぜなのかを

「書いてどうすんの、単なる言い訳でしょ」

と思ったので、自分で知らん顔していましたが、


私の活動の様子を遠巻きに覗き見ながら

ご自身がどうするかを

機会を伺っている方があったということを
たまたま人伝に知ったこともあって

これは「皆さんならどう思う?」の投げ掛けは有効だなと思ったので

自分への振り返りとしても良いことなので

ちょっと記録しておきます。


☆☆☆☆☆☆☆☆


あくまでも、私の経験上の話に過ぎませんが、

ミディアムシップ(霊媒)セッションを実際に申し込んで来られる方は、(気軽なお試しイベントではない、料金の発生する真剣なセッションの時はダントツ)こうした場合が多いのです。(私の性質にも寄るのかもしれませんが)


簡単に言うと「亡くなられた方に対して想いを残しておられるかた」です。


①お話しになりたい相手の方が自死や突然死で、残されたこちらが別れに納得できていないという場合

②亡くなられた方について、家族や共通の知り合いや誰かと、話し合ったり、気持ちを分かち合ったりすることが、諸事情により出来ない立場におられる場合

③生前に交流出来なかった、何らかの強い想いを残していて、今もう二度とそれが叶わないと解って追い詰められるような気持ちになり、今になって気持ちを確認したいと感じられた場合(要するに後悔がある場合)


どれにも共通するのは

強い思い、特に「疑問」「謎」「後悔」を残しているということです。

(ペットちゃんは別)


特に「後悔」というのは

その奥にあるのは「罪悪感」つまり

「許してもらいたい」という気持ちです。

何かあったとしても、全く悪いとなんか思っていない人は、せっかく消えてくれた面倒なんかいちいち掘り起こして呼び出して改めて確認なんか取りたいとは思いません。


もし、亡くなられたお相手の方と、愛一杯の、ほとんど愛と感謝ばっかりの良好な関係だったならば、例えば大好きだったおばあちゃんだったり、非常に良い関係だったご家族だったならば、あるいは、最後まで愛してよくお互いに想い合った人だったり、互いによく気持ちが通じあっていたと感じられたお相手である場合は、

それはもちろん別れが悲しいのは山々だけれども、どこか消化しきれるような、「きっと天国でもこう思っていると思う」という言葉が、その生き残られた方ご本人から聞かれます。

隔たっていることは寂しいことは寂しいけれど、どこかその事態をも、信頼しているというか、上手く諦め(あきらめ)を付けられるだけの心の穏やかさ、安定感があります。

今、亡くされたばかりのショック期間は当然あるにしても、それをそれなりに健全に、日にち薬で、消化して行ける生気がある。

そういう感じの方は、一瞬、「もう一度会いたさ、懐かしさ、恋しさ」から、「ミディアムやってもらってみようかな…」と、揺れるような素振りも見せますが、結局は「いいや」となる(いいやにできる)し、

私もこんなとき、敢えて勧めないのです。

(勧めないし、安易にやらないためのハードルというか防波堤として、料金というものも設定しています。愛と光いっぱいで別れに納得できている方は、たとえ話せるとしても「うん、でも、いいや❤️」と、あちらの世界の愛する方とは元気にさよならをして前を向いていかれます。大丈夫、きっとあの人は今ごろこうだ、と、信頼しておられるのですね。

いくらミディアムでも、やればセッションになるとはわかっていても

やはり、どこかで私はこう思っているのです;

「死と生は、必要があって隔たっている」

それをおいそれと簡単に、宇宙の用意した境界線を侵すようなことは、何か大切な、畏怖というようなものを安易に踏みにじる感じがする。自然に対する敬意を損なうような気がする。


境界線を越える「それがミディアム」ではあるのですが、

それは、「どうしてもの時」に限ると思っています。

どうしてもの時とは、たとえば、その人の死によって、まだ生を生きていかなければならない人が歩みを止めてしまうようなときは、歩みを続けるためには、ごめんなさいのチートだけれど、イレギュラーに、自然界から力を貸してもらう、本来隔たった世界ではあるけれども、想いを伝え会うことで本来の(生まれる前に定めてきたブループリントを再開する)流れを戻せるのであれば、必要であればやむを得ない、として、【自然界への感謝とお詫びを以て】、越えさせて頂く

ミディアムは、そういうような、大切なものとして行いたい、行うべきだと、思うのです。

もう少しわかりやすく例えれば、

人の皮膚や肉を刃物で切るなんて普通はやってはいけないことですが、人体の神秘は本来人間が立ち入るべき領域ではなかったはずですが、

体内にのめり込んだ弾丸を取り出したい場合や、命に関わる病巣を取り除くなど「やむを得ない場合」に限っては、然るべき処置(止血や輸血の用意や麻酔や脈拍の管理など)をとりつつ、切ってもいい、というか切るしかない、

「生きるために」、人間は、人体の宇宙と神秘を冒して医学を研究・修得・発展させた

そういうことに、ミディアムも似ているとだと私は思っています。


肉体には医療ならば、
魂にはミディアムやチャネリングやリーディング

なのだと思います。


さて、それはそうと、

では「どうしてもの時」に当たる方々は?
というところですが。


正直平たく言って

その暗さに、今の私は耐える力がない。
耐える気がない。

あまりにも重すぎる。

「嫌なものは嫌なんです」とはここのことなのです。ごめんなさい。

3年前、自身の身に起こったショックと悲しみと混乱は、私をある程度「狂気」の域に踏み込ませました。

しかしそれは、一概に悪いことでは決してなく、「酷いショックや深い悲しみの世界にも耐えられる私、そういう闇をも、ものともしない、最強の私」を、作り上げました。

これを経験したからこそ、「ルシエル」の言わんとしていることも手に取るようによくわかりました。(ルシエルについて詳しくは山田征さんの本『光と影のやさしいお話』ナチュラルスピリット社刊を参照下さい。)

きっとこの3年間は、私にとっていわば「ポータルが開いていた」時期と言えるかもしれません。

そして今、ポータルが閉じた?というのは、

見えない世界がわからなくなったとか、ミディアムができなくなったというのではなく、

むしろ「そういうものを必要としない生き方を推奨し皆で目指して行きたい」と、強く思っている、ということなのです。

あの世とこの世は、
必要があって隔たっている。

越えようと思えば越えられるからって、無闇に越えてはいけない。

本来越えるべきでない境界線を尊重するということは、

自然や、あちらへ旅立ち新たな学びに入っていかれた魂たちや、まだこの世での学びを日々取り組んでいる、この私達自身に対してさえも、

尊重する、信頼する、愛を以て委ねる、任せる

ということになる。


そう、強く、思うのです。


いつまでも、去った人にこだわり、すがるのはやめましょう。

子離れ・親離れと一緒です。

生きてるか死んでるかの違いだけ

どんなに同情してほしい理由があろうとも

いつまでも取り付いて引っ付いて離さない、束縛しているというのは、お互いにとって成長を妨げるものです。

せっかく勇気を持ってあちらへ行った魂を

祝福して送り出してやらないでどうします?


独立しましょう。

今は、宇宙の流れや星の巡りからしても、そういうのが相応しい時です。

私も独立しました。

新たな道を行きましょう。

新たな扉を開きましょう。

こだわりを解き放って、軽くなって、飛びましょう。

遅れないように❗️❗️

なんと、2日続けて同じカード。よほどメッセージなのでしょう。

このカードは英語版ですが、訳して載せておきます。

「死ほどのものってない(死は悪くない)」

私は生きているあなたと同じくらい、生き生きしています。なぜなら、私達の魂というのは、決して消し去ることの出来ない生命力のエネルギーそのものであるからです。私の肉体は解き放たれただけ。肉体というのは、地上の他の “密度の濃い” エネルギーに影響を受けた、これもまた “密度の濃い” エネルギーの形に過ぎなかったのです。私の魂もあなたの魂も、輝くばかりに美しく元気で、波動の高いエネルギーで、永遠に生き続けるものなのです。

私の意識ははっきりしており、自分が何者でどこにいるのかにも、はっきり気づいています。

こう思って下さい。あの世へ行った私は物質世界の迷いから自由になり、より多くの気付きを得たのだと。

私が幸せであることを知ってください。
魂の感覚として、私がとても健康で幸せであると、どうか知ってください。

あらゆる点において、私は地上に居たときよりももっと、あなたの役に立つことが出来ているのです。なぜって、私はかつてよりももっとずっと、生き生きと生きているからです!


(リエラヒロコ訳)