いつも そばにいるね。
居るだけでいい。
この世から居なくなったんじゃない。
今はわかる。あの世だって、繋がってるから。


人は、居るだけでいいんだと思う。


穏やかに、平穏に、にこやかに


心静かに、そこにただ暮らして、


日常を楽しく日々過ごして


いろんなことが起こるのは当たり前だから


ああそうですかと


次はそれですかと


感じたり考えたり反応したり、喜怒哀楽とか味わったり、してもいいけど、大いに結構だけど、


奥底では

魂では


淡々として眺めている姿勢があることを、


どこか忘れてはならないように思う。


いや、忘れてしまうんだけど

この世で人間やろう!地球で人間として過ごそう!を実践するときには、

そういう魂の視点、神の国、生まれる前の世界、天国に自分が居た頃の、宇宙の調和の視点は、一旦忘れてしまわないと、人間という体験を味わうのに真剣味が欠けるというか、
マジで没頭してリアルに味わい尽くすことができなくなるから、忘れてしまうように出来ているのだけど、


あまりにもこの世の波に没頭し過ぎて、迷子になって溺れてしまいそうになったときは、

本来の魂の視点をちょっと思い出して

「いやいやまてまて、大丈夫、これは夢なんだから。」と、

自分に言い聞かせて、落ち着いた方がいい。



そういう視点で

そういう落ち着いた視点で

敢えて思うことを、


秋の夜空に寄せてセンチメンタルに吐露してみるならば、

以下のような詩人を気取ったブログのひとつも

たまには酔狂に、出てきてもいいかもしれない。


☆   ☆   ☆



かつて愛した、今はもう亡くなったあの人も


親や兄弟も


かわいいペットも


縄文時代の埴輪も



ただ、そこに居るだけでよかったのだ


何にも言わない

何をしてくれなくてもいい


誰かが聞いてくれるということは

そういう人が居るということは

それだけで

大層な癒しだったのだ。


私がたとえ、その時は話さなくても

もし話したら聞いてくれる、そんな誰かが居るだけで

相槌も答えも返さなくていいから

ただ聞いてくれる人が

姿が見えなくてもそばにいなくても

この世のどこかに達者で居てくれるというだけで

それだけで

安心していられたのだと思う。


これがわかったのは


生きている間はそれがわからなくて


わがまま言って甘えてしまった


あの人たちが


この世から居なくなったからだった。


「居るだけでいい」ということが

居るときにはわからなくて

居なくなってからようやくわかった。

ほんまにアホやなぁ。




龍が私に、カードを通して予言した。


あの日のちょうど一週間前だった。


「闇を裂くような稲妻が炸裂するだろう

でも稲妻、稲光というのは

闇を一瞬でも強烈に照らし、すべてを明らかに見させてくれるものだ。」


一週間が経ったあの夜

突然の思いがけない訃報が届き

文字通り、雷に打たれたような感じがした。

驚きと共に泣き崩れた後に

「この事だったのか!」

っと、愕然としたっけ。

あれが、今までの私のカードリーディングの中で、最も強烈で鮮明なリーディングだった。

あの経験で一気に確実に、自分自身の「感覚」に対する深い確固たる信頼が、自分の中に構築されはしたけれど、それはせめてもの救いとなっているけれど、

でも、あんな経験は、できればしたくなかったなあ。

強烈な深い感情は、人の成長の大きな一歩を、しっかり刻みはするけれど、

そんな痛い思いをしなくても、穏やかに静かにそっといつの間にか悟れるような、そんな穏やかで賢い人間で在れたらいいのになあと思います。心がそういう風に変われば、運命もそういう風に自ずとなるのだろうな。


それからずいぶん長いこと、毎日泣いていたけれど

今ブログを読み返すと

不自然なほどに、すぐに元気を出そうとしていた。

べつに、日が浅いのなら、悲しいのは当たり前なんだから、しんみりしょんぼり、力なく、大人しく泣いていりゃぁいいものを、

なんだか無理矢理、自分に力づくで、強引に、今振り返って見れば不自然なほどに(笑)、

立ち直ろうとして足掻いている、自分が可笑しい(笑)

健気で痛い。でもそれが可笑しいというか、愛しいと思える。

頑張っている自分に、ようやく笑えたというか。

「なんで笑うわけ?馬鹿にしとんのか?」と、マジに突っ込んだりせず、

素直に、可笑しいな、かわいいとこあるじゃん、って、ようやく素直に受け入れられたというか。

(当時の姿は今見ると可笑しいけど、ああやって何とか一生懸命生きたからこそ、新しい、とても前向きな素敵な仲間たちとも、出会えた今があります。穏やかな心の在り方も身を持って体得しつつあります。)

年齢を重ねるって、こういうことなんだなあと思いました。

丸くなる、なんて言い方をよくしますが

寛大になるのですね、何に対しても、自分を受け入れるということに関しても。

10代の頃とか若いときは、本当にどうしようかと思った。

こんなにガチガチでイガイガした自分、果たして生きていけるのだろうか?と、思ったものでした。

いろいろなものに憤りを覚えたし、真剣すぎて恐くて、ラジカルなものの考え方をし、理屈っぽく、頭ばっかりガンガン働いて、こういえばああいう、めちゃくちゃめんどくさい人、でもそうであることをやめられない、止められない自分。嫌いだった。

でも、押さえつけよう矯正しよう否定しようったって、一切言うこと聞かない、撥ね付けて暴走して、爆走して生きてきた、したくてそうした訳じゃない、そうしかできなかった。嫌いだったけどしょーがなかった。それが私だから。
でも、その結果。

すごく、私は良く学べました。

ようやく自信持って言える、いい人生だった。

良い歳の重ね方をすることができました。

すべてに「ありがとう」です。

親を始め、あらゆる先生や師匠や、周りの人たち、本当に「マジ迷惑かけた本当に」です。ドラゴンアッシュの「グレイトフル・デイズ」の歌詞そのものです。よくぞ耐えてくださいました、よくぞ見守って支えてくださいました。逃げた人も大勢いるかもわかりませんが(笑)、遠くから、安全な物陰からでも(笑)、見守って下さったから、今ここにこの私が居ます。

自分の言葉で話せる。

心に刻んだ経験が、私を大きく穏やかにさせてくれる。

まだまだ揺らせば波紋は立ってしまいますが、

やがて、

かつての私のようなイガイガ生徒が、後からついてきたとき、

穏やかな、大きな心で、付かず離れず、強く、静かに、ベタベタしない深いグラン・ブルーの優しさで、見守ってやることが、出来ると良いと思います。

真の、「居るだけでいい人」に。

なれるといいと思います。