私には、子供が二人いる。
上のお兄ちゃんは社会人で、既に家を出て独立した。
下の妹は大学四年生で、目下就活中だ。
二人がまだ高校生だった頃
私は、ある信頼を寄せる占星術師に、自分の生き方のことで相談をした。
家族の話になり(私の道に深く関わることだったので)、
ついでの流れで
二人の子供達の話になった。
そこで、面白いことを聞いた。
「上のお兄ちゃんはお母さん(私)のことを、『この人は自由だなあ』と思って見ている。ところが下のお嬢さんは、『ママはもっと自由に生きたらいいのに』と思って見ている。同じ一人の母親の同じ行動を見ているはずなのに、きょうだいでそれぞれ見方が違うというのは、面白いことですね。」という。
(彼女は星読みだけではなく、霊視の能力も持ち合わせていました。)
あれから数年が経ち、
子供だったこの二人のきょうだいにも、「生き方」みたいなものが顕著に現れてきて、
あのときに指摘された二人の感覚の「違い」(良し悪しではない。単なる多様性)がそれぞれ、形としてはっきりと浮き彫りになってきたのが、実に面白い。
当時私を「この人は自由だなあ」と思って見ていたお兄ちゃんは、自分自身も実に自由で、今は別に自由業等ではなく会社勤めはしているものの、「それは俺の夢を叶えて好きに生きるための手段でしかない。会社は金のためにやっていることに過ぎないから縛られはしない。」ときっぱり豪語し、たしかに何かと自由で給料は比較的良いという会社を選んでいるし、普段の生活は、友達といつも一緒に、自由に楽しさを紡ぎだし、好きなものと、仲間と、料理と、大好きな音楽と、自分の美意識に忠実に従って、実に楽しんで生きている。そのために、頑張るところは頑張っていて、それをあまり我慢だとか苦労として気に病むことはない。
そして、「ママはもっと自由に生きればいいのに」と思っていた娘の方は、自分自身が今、目下そういう立場にいる。好きなことを自由に追い切らなかった娘。友達や、先生や、先輩や後輩や周りの人たちを助けるために、自分を後回しにしてでも面倒を見るような、責任感の強い子。どのくらい納得してかは知らないが、自分で選んでそうやってしまったことだから、実際や感想はどうあれ、私は心の中では誉めて認めてやるしかないが、「それでいいのか?もっと自由に生きたらいいのに」と、あのときの娘から私への感想と、全く同じことを、私から娘にも、思ってしまうのである。
今、私が一番苦しいのは、
こんなに生き方を学んでいるのに、それを私は取り入れて日々少しずつでも光の方へと進んでいるはずなのに、
こと、娘にそれを伝えようとしたとたん、
母から娘へであるがゆえに、それだけのために、
せっかくの情報が「母親からの呪縛」になり下がってしまうのではないか?ということだ。
「私が母親でなければ」、いや少し違う、
「娘は、こんな自由な生き方が出来るんだということ、宇宙には愛や“波動の法則”があるのだということを、私ではない人から、母親ではない人から、聞ければ良かったのに。母親が伝達者であったばっかりに、反抗心、独立心から、みすみす、幸せへの生き方へのアクセスを、自ずからシャットアウトして逃してしまうことになったのではないだろうか?」ということだ。
本当にこれには心を痛めている。
心やスピリチュアルな話を、なるべく娘にはしないようにしたり、かと思えば、ここはというときには小出しにしてみたり、本を紹介してみたりと、自分で感じても実に不安定で一貫性がなく、不発感満載で、実にウザいことだと思っている。
息子のほうは、いつのまにか勝手に、苫米地英人とかいう人の本を読んで、引き寄せ的なやり方を勝手に体得していたし、親の言うことでも何でも、嫌いなもの、自分が要らないと思ったものはキッパリハッキリピシャッと断る人なので、何も言わなかった。ただ、こちらが言わなくても、こちらのやっていることや取り組んでいることはしっかり見ている人だった。
(いつか息子の方から私に、苫米地博士の本の存在をチラッと示してきたことがあったが、私は当時その人を知らなかった上、ビジネスビジネスしている感じが受け入れられなくて、いろんな本を読むのは素晴らしいが偽物もいるから注意して自分の感覚を大事にしていけよ、ぐらいなことを言ってしまい、実に失礼してしまったと後悔反省した経緯がある。)
気になることほど、学びなのだろう。
家族でも、個々に違う、縁も関わりも現れも。
ちょうどいい距離の取り方について。
自立について。
自己投影の仕組みについて。
自己肯定について。
自己卑下からの脱却について。
他。
娘と、あとどのくらいの間、傍で過ごすのかはわからないが、共に学ぶことになるのだろうと思う。
神様、どうか私達各自がそれぞれ、
人生を切り開いて、
自分の魂の輝きに気づいて行けますように。
笑って過ごせますように。