ワイズ博士の『前世療法』のCDをBOOK・OFFで偶然手にしてから、過去世・前世への瞑想による旅を何度も試みているうちに、こんなことに気がつきました。

初めは、いくつかの、ある一時の場面だけを断片的に見ていましたが、そのうちCDの誘導音声から離れて自分で自由なタイミングで瞑想できるようになったとき、
(CD本ではなくワイズ博士の著書の方の影響によるところも大きいかもしれませんが)
その場面の意味が謎なとき、その一生の終わりの場面まで飛ぶことができるようになり、
そこを経験するうちに気づいたのでした。

何故、何度も生まれ変わっているのか?

私の魂は、何をクリアしたくて、何を持ち越して、何度も転生しているのか?

その問いに対して私が私なりに感じた答えは

平たくいうと

「死んだ後が快感だから」

でした。

これだけだと乱暴に聞こえるので解説すると

体を持って生きているとき、(私の場合は?)たいてい(最期なんか特に)辛いことが多いのですが、

その辛さと、
終わって体を抜けて天に還って休息に入った時のあのえもいわれぬ安らぎ、解放感、楽さ、というのは、


たとえていうならば


辛い仕事をやりきることの達成感と、そのあとのビール

真夏のテニスコートで試合をし汗を流すことと、その後の最高にうまいビール

崖や絶壁や辛い上り坂などに挑む肉体の限界への挑戦と、頂上に達したときの絶景や達成感による最高の快感、クライマーズ・ハイ

急な斜面の下りとわらいだす膝のガクガクや体力の消耗と、無事下山して地上の家族と味わう暖かい食卓や風呂のお湯の心地好さ、達成感と「さあ、次はどの山に挑もうか?」の新たなる気持ち


そういうものと遠くないのだと。


スケールこそ多少違えど


肉体に宿ってみるということは

案外そんなものなんだと


貴重な機会であり、尊い奇跡であるとはいえ

魂の磨きだとか修行だとか

そんなに大袈裟に構えた大それたものでも、案外ないんだと


気楽に楽しくやってみろと


人間の想像なんか遥かに及ばないほどの、気の遠くなるような、広い広い広大な宇宙の営みからしたら

繰り返す転生なんて

神様の一環、大いなるエネルギーの端くれ、ぴよっと飛び出したエネルギーのヘルニアみたいなものであるで私達魂の、

単なる遊びなんだと


肉体の重さ、人生のいろいろ、想い、重いこと、そういうものは、辛いようでいて実は、そのあとの料理が最高にうまいものになるための最高のスパイスのようなものなんだと


あの世の軽やかさ、最高さを、噛み締めるために、何度も再認識するために、生まれることを時々何度も体験したくなるんだと


だから

今は、今、目下、目の前に現実として感じていることは、真剣に味わうからこそ、喜びも悲しみも、大層なことのように感じるだろうけれども、

気楽に 気楽に 楽しく

軽やかであることをいつも心のどこかに忘れないで

楽しんでおいでと

悲しみや怒りでさえも

ああ感情というのはこういうものなのかと
味わって

ただ味わって

良いとか悪いとか判断は抜きにしてただしっかり味わって(それを「楽しむ」と言う。)

そうして還っておいでと



大いなる何者かが


瞑想から覚める瞬間に


私の心に一瞬にしてさっと

耳打ちしてくれました。