今日もお読みくださりありがとうございます




前回の続きです。
神奈川県横浜市、大倉山にある師岡熊野神社には、「いの池」「のの池」という池があると聞いていました。
「いの池」は先程、鳥居をくぐる前に下で見ましたが、さて「のの池」はどこだろう?
境内の掲示板を見て、それがある奥の方へ上がっていきました。
(昔は「ちの池」もあったとどこかで聞いた気がしますが、それは見当たりませんでした。もう無いのかな?「血の池」みたいだしね~?)
「のの池」のある場所は、境内の奥の方の、ちょっと高いところにあるのですが、石像とか祠とかが並んで、大きな木が鬱蒼と生えているような奥ゆかしい場所で
一人で入るのに少し怯みました。
なんだか怖いような、神聖すぎるかのような
ちょうど、前回、午後遅めの時間に到着してしまった、霧の芦ノ湖べりの九頭龍神社
の入り口で躊躇して入れなかった、あの感じに少し似ていました。→九頭龍神社の記事
でも 今日はまだ明るい昼間で、あのときほどではなく、離れた見える所に人も居て、近寄れないほど怖くはないと、立て札の所まで行きました。
石像の云われなどを読んでいて、
あれ?のの池はどこなの?更に上…?
見ると
ありました。が、
なんて小さい!(;・ω・)
水溜まり?っというくらいの大きさ…。
けれども。
奥まってとっても神聖な感じがするその池を
まるでそっと抱え込んで守っているかのように
後ろから大きな木が、
今にもこちらへ倒れてくるんじゃないかというような角度で、でもしっかり根を張って立っており
その姿をみるだけでも
この池がなにか自然や大きなものたちにとって、神域の木々たちにとってさえ、とっても大切な池のように思えるのでした。
そして、はたと感じました。
この「のの池」は、なにかを繋いでいる。
「いの池」「のの池」とあって「ちの池」は無いけれど、「ちの池」は…
あ。そうだ!
ここに、私の中にあるんだ!
私の血が、この体に流れている血が、私自身が、3つ目の池「ちの池」なんだ! と。
音で感じてみます。
「い」… 一。始まり。すべての始まり。創造の源のこと。いー…ずっと続くもの。永遠なるもの。それを表す音が「い」。
「の」…繋ぐもの、(長く伸びる)管。所属を表す。
「ち」…地。血。置。今ここで、営むこと。形あるもの。
つまり「い・の・ち」とは、創造の源(神様、大いなる宇宙意思、ソース、源)と、私達生命を営むもの(神よりは次元の低い所に顕れて、魂を磨く修行のために日々を営み展開するもの)とが、卵管や臍の緒みたいな管で繋がっている状態を表すのです。創造主と私達が、繋がって営んでいるもの。または繋がっている状態。それが「い・の・ち」です。
い…の音が表すように、宇宙意思、創造の源にある魂、エネルギーは、永遠に、ずっと続いていくものです。(論理的に説明はできません。音を聞いたらそう感じるじゃないですか、としか言えません。m(__)m)
それを私達は、今ここで、いちいちちぎって形にして見せるかのように、体現してみせているのです。それが「ち」です。日々の小さな、チマチマした、愛すべき営みのすべてが、「ち」なのです。(日本語というのはほんとうによくできていて、音がそのまんま意味を表しますから、こうやって説明を試みても、「ち」という音がもう既にしばしば出てきます。「ちいさな」とか「ちまちま」とか。こじつけなのではなく、音の現象として自然なことなのです。)
こうして書いて説明してみると長いのですが、脳というのは一瞬で電撃、伝わり回るもので、
このことは、のの池の前で「ドバッ」と一瞬で閃きのように入ってきて感じ取りました。
それが入ってきたとき、
また社殿の前の祈りの時のように、
ザアーッと風が起こりました。
「Yes !そうだよ!」の、神様からの合図のような気がしました。


神様の担当は「い」。
始まりと、ずっと続くもの。
私達生き物、人間の担当は「ち」。
今ここで、小さな日々を地に足つけてちまちまと営むこと。
(↑「ちまちま」って、あんまり良い意味に使わないのかな??ディスるような意味ではなく、一歩ずつ小さくても確かに歩む、小さくても大切な一歩一歩、みたいな意味で使っています。)
神様の営みと、私達の営みとを、繋ぐもの、神様「の」化身、体現者である、私達。
こんな素敵なアイディアに出会わせてくれた、師岡熊野神社に祀られている
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
の三柱の神様がた、
のの池の側の祠に祀られていた、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)様
お呼び下さり、誠に、ありがとうございました(*´人`*)
師岡熊野神社/東急東横線「大倉山」駅下車徒歩8分 是非です













前回の続きです。
神奈川県横浜市、大倉山にある師岡熊野神社には、「いの池」「のの池」という池があると聞いていました。
「いの池」は先程、鳥居をくぐる前に下で見ましたが、さて「のの池」はどこだろう?
境内の掲示板を見て、それがある奥の方へ上がっていきました。
(昔は「ちの池」もあったとどこかで聞いた気がしますが、それは見当たりませんでした。もう無いのかな?「血の池」みたいだしね~?)
「のの池」のある場所は、境内の奥の方の、ちょっと高いところにあるのですが、石像とか祠とかが並んで、大きな木が鬱蒼と生えているような奥ゆかしい場所で
一人で入るのに少し怯みました。
なんだか怖いような、神聖すぎるかのような
ちょうど、前回、午後遅めの時間に到着してしまった、霧の芦ノ湖べりの九頭龍神社
の入り口で躊躇して入れなかった、あの感じに少し似ていました。→九頭龍神社の記事
でも 今日はまだ明るい昼間で、あのときほどではなく、離れた見える所に人も居て、近寄れないほど怖くはないと、立て札の所まで行きました。
石像の云われなどを読んでいて、
あれ?のの池はどこなの?更に上…?
見ると
ありました。が、
なんて小さい!(;・ω・)
水溜まり?っというくらいの大きさ…。
けれども。
奥まってとっても神聖な感じがするその池を
まるでそっと抱え込んで守っているかのように
後ろから大きな木が、
今にもこちらへ倒れてくるんじゃないかというような角度で、でもしっかり根を張って立っており
その姿をみるだけでも
この池がなにか自然や大きなものたちにとって、神域の木々たちにとってさえ、とっても大切な池のように思えるのでした。
そして、はたと感じました。
この「のの池」は、なにかを繋いでいる。
「いの池」「のの池」とあって「ちの池」は無いけれど、「ちの池」は…
あ。そうだ!
ここに、私の中にあるんだ!
私の血が、この体に流れている血が、私自身が、3つ目の池「ちの池」なんだ! と。
音で感じてみます。
「い」… 一。始まり。すべての始まり。創造の源のこと。いー…ずっと続くもの。永遠なるもの。それを表す音が「い」。
「の」…繋ぐもの、(長く伸びる)管。所属を表す。
「ち」…地。血。置。今ここで、営むこと。形あるもの。
つまり「い・の・ち」とは、創造の源(神様、大いなる宇宙意思、ソース、源)と、私達生命を営むもの(神よりは次元の低い所に顕れて、魂を磨く修行のために日々を営み展開するもの)とが、卵管や臍の緒みたいな管で繋がっている状態を表すのです。創造主と私達が、繋がって営んでいるもの。または繋がっている状態。それが「い・の・ち」です。
い…の音が表すように、宇宙意思、創造の源にある魂、エネルギーは、永遠に、ずっと続いていくものです。(論理的に説明はできません。音を聞いたらそう感じるじゃないですか、としか言えません。m(__)m)
それを私達は、今ここで、いちいちちぎって形にして見せるかのように、体現してみせているのです。それが「ち」です。日々の小さな、チマチマした、愛すべき営みのすべてが、「ち」なのです。(日本語というのはほんとうによくできていて、音がそのまんま意味を表しますから、こうやって説明を試みても、「ち」という音がもう既にしばしば出てきます。「ちいさな」とか「ちまちま」とか。こじつけなのではなく、音の現象として自然なことなのです。)
こうして書いて説明してみると長いのですが、脳というのは一瞬で電撃、伝わり回るもので、
このことは、のの池の前で「ドバッ」と一瞬で閃きのように入ってきて感じ取りました。
それが入ってきたとき、
また社殿の前の祈りの時のように、
ザアーッと風が起こりました。
「Yes !そうだよ!」の、神様からの合図のような気がしました。



神様の担当は「い」。
始まりと、ずっと続くもの。
私達生き物、人間の担当は「ち」。
今ここで、小さな日々を地に足つけてちまちまと営むこと。
(↑「ちまちま」って、あんまり良い意味に使わないのかな??ディスるような意味ではなく、一歩ずつ小さくても確かに歩む、小さくても大切な一歩一歩、みたいな意味で使っています。)
神様の営みと、私達の営みとを、繋ぐもの、神様「の」化身、体現者である、私達。
こんな素敵なアイディアに出会わせてくれた、師岡熊野神社に祀られている
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
の三柱の神様がた、
のの池の側の祠に祀られていた、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)様
お呼び下さり、誠に、ありがとうございました(*´人`*)
師岡熊野神社/東急東横線「大倉山」駅下車徒歩8分 是非です








