昨日、

聖母マリア様について

はっと閃いて解ったことがありました。

ただ、あまりにも有名な聖母マリア様について、今さら私ごときが何を… という思いが微かにかすめて、書かなくてもいいか、とほうっていました。

けれども、そのあとから、いったい何台の2222ナンバーの車と出会うことか…。

2222はマスター(イエスとかブッダとか老子とか観音様とかマリア様とか)の数字。

これは、書いてもいいのかな、マリア様からの後押しかな?と

勝手に思いました❤(^o^)

長くなってしまい申し訳ございませんが
お時間あるときにでもお読みいただけると幸いです。


いろんなことに

幸あれ。蝶々ハートWハート


☆”:;;;:”☆″:;;;:"☆":;;;:"☆":;;;:"☆":;;;:"☆":;;;:"☆


昨日は

大変嬉しく楽しく濃密な実り多い一日を過ごさせていただき

あまりにも嬉しかったので、

たまたま近くまで来ていたことだし、と

神様に、いつも導いて見守っていて下さる日頃の感謝も込めて、『ありがとう参拝』に行くことにしました。

『ありがとう参拝』について

宇宙メッセンジャーShiho さんがお話しくださっている動画が←こちら

内容をざっと書いておられる記事が←こちら
(是非ご覧ください↑↑)

  ★  ★  ★


「東京のお伊勢さん」東京大神宮には、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)様が祀られています。(その他三柱の御祭神)


池袋から、東京大神宮のある飯田橋の駅まで5~6駅だったかと思いますが、電車に乗りながら、その日頂いたプレゼントのアロマオイルを、嬉しくてめっちゃクンクンクンクンww していた時、(今の私のエネルギーと等しいと感じられるものをお選びくださったということで、女神「イシス」の名の付くオイルを頂きましたドキドキ(〃▽〃)ラブラブ

途中に「江戸川橋」の駅があることにハタと気がつきました。

あっ、そうだ、江戸川橋で降りると、マリア様に会えるんだったっけ…

江戸川橋のマリア様とは、
東京カテドラル大聖堂にある、マリア像のことです。
この教会の敷地内(屋外)に、フランスのルルドの洞窟を模した祈り場があり、岩の上に聖母マリア像が立っているのです。


(スマホのバッテリーが切れてしまいお写真撮れず(TT)画像お借りしました)

「天照皇大神も行くけれど、その前にまず、もうずいぶんお目にかかっていないマリア様にご挨拶だ!」

そう思い立ち、江戸川橋で電車を降りました。

暑くもなく寒くもなく、爽やかな佳い気候で、祈り場にはどなたも居られず、スマホはバッテリーが切れていて、写真も着信も気にしようが無く(笑)。

なんという、静かで気楽な、開放感…。

久しぶりに とても とても静かに

深く  祈ることができました。

お願い事も感じず ただ、「ありがとう」だけ。

Shiho さんが動画で教えてくださったことが、奇しくも、東京大神宮の天照皇大神よりも先にマリア様の前で行われることになりましたが

神様(何神様であろうと、なにか遥か上のほう、宇宙の中心に近いところから、いつも私達を見守り、導いて下さる、大きな大きな愛の存在のこと、を、全部引っくるめて私は「神様」と呼んでいます。)に、願い事をするばかりでなく、「ありがとう」と感謝をお伝えするための祈りを捧げることは、こんなに大切で、私も神様も嬉しい、“魂のご馳走”のようなものなのだと、深く感じることができました。

(Shiho さん、素晴らしいことを教えてくださり、誠ににありがとうございました❤)


そして その祈りの間に ふっとわかったのです。

マリア様がなぜマリア様としてマスターになられたのか?

それはこういうことでした。

愛する息子を、

命より大切と慈しんだ愛する息子を、

世間の中で救世主として崇め奉られて
いろいろな目に遭って行く息子を、

仕舞いには磔刑に処され、民の苦しみを一身に背負うという大義名分の下とはいえ、大勢の前で何日も何日もかけてゆっくり苦しみながら亡くなってゆく、最期には槍で突かれて命を落とす様まで見なければならなかった、愛する息子イエス]を、

彼がどんな目に遭おうとも、そんな息子を、

お母さんであるマリアは、一部始終見守るしかなかった。

それでも、愛と慈悲と静けさと優しさ、穏やかさを持って(それは容易なことではなかった)、それを粛々と受け入れ、経験するほか無かった。

結果的には偉大だったかもしれないけれども、それでも、現実的には、頑張る一(いち)母親に過ぎなかった。
それがマリアだった。

歴史に大きく書かれはしなかったかもしれないけれど、あのイエスの大冒険の陰には、そのすべてを見ながら、おとなしく優しく静かに見守るしかなかった、見守り切った、偉大なる母親の愛があった。
大きな海のような静けさを、身に付けるほかなかった。
それがマリア様だった。


文字にして書くと長いですが、
祈りの中で、一瞬にしてドバッと伝わってきたのは、こういうことでありました。

マリア様の哀しみを感じました。

愛する息子が、磔刑ですよ?
とんでもない重荷を背負って、救世主という重荷を担って、磔で槍ですよ?お母さん、耐えられますか?

今でこそ聖人ですが、当時渦中にあったときには、やはり一人の人間で、一人の母親だったことでしょう。

そもそも史実として実在したのかどうか、事実なのかどうかを議論する方もおられますが、たとえ万が一、マリアとイエスのエピソードが例え話やファンタジー、伝説だったと仮にしても、耐えきれないような辛く苦しい状況を、瞑想のような静けさと穏やかさ、愛と慈しみを以て、心静かに耐え切った、穏やかな状態を保ち続けられたということは、人間の在り方として、魂の状態として、偉業だということは、十分に伝えられると思います。

辛い状況を乗り越えて穏やかな心に達した、マリア様の心の軌跡を感じたのでした。

人の在り方として偉業を為した「だからマリア様なのだ」と、感じたのでした。

そして、明らかにすることで、悲しみを表に出して光を当てることで、「そういうこともあったんだな」と、誰かがそっと心で寄り添うことで、それは癒されるということも、感じました。


屋外の祈り場を後にし


カテドラル大聖堂の中に入ってみました。

「ピエタ」という像がありました。

これは、磔刑で命を落としたイエスの亡骸を、母マリアが膝に抱き、愛と慈しみと哀れみを以て見つめ、静かに瞑想している様を彫刻で現したものです。

大泣きして泣き崩れるでもなく

息子をこんな目に遭わせたと言って誰かを恨むでもなく

ただただ うつむき 愛する息子イエスの亡骸を見つめながら 静かに祈っています。


ピエタ像(「ピエタ」はイタリア語で「悲哀」)

画像パンフよりお借りしました)


マリア様の静けさと愛に心を合わせながら、誰も居ない大聖堂の中央に出て祈りました。

すると、まるでこの前の江の島の龍宮(わだつみのみや)の前で龍笛が鳴り出した時のように(そのときのブログがこちら→
誰かが練習しているのか、パイプオルガンが、荘厳なメロディを奏でてくれました!キラキラキラキラおんぷ音符なっ・・・なんと!きらきら

(こちら東京カテドラル関口教会にあるパイプオルガンは、教会用オルガンとしては日本で最大のものだそうです。)


マリア様ありがとう。

見守る心を教えてくださってありがとう。

いつも支えてくださり ありがとう。

どうか安らかに。

いつまでも私達と共に歩んでください。

私達が、マリア様のように、慈悲に満ちた静かな心で、この人生の旅を優しく進めることができますように。

愛しています。