2011.3.11 | とあるニッポン人の日常

とあるニッポン人の日常

  


気仙沼の唄うたい hilokoのブログ


3.11から、数日音信不通だった私。元気に生きてました。

14時45分、デイサービスで合唱をしており、太平洋戦争後に流行ったマーシャル諸島の歌うたってたら震度7の地震。 その歌うたったからだーなんて笑ってたのは初めだけあせる

今まで体験した事のない、縦に横にぐわんぐわん揺れる地震DASH!

そして、ホールでは、天井が崩れる始末。

お年寄りは、みんな口を揃えて[ 津波が来るー。]と言いました。

ダメだーと泣く人も。
間もなく、防災無線から 10メートルを超える津波がきていると連絡が入り、事務所付近のみんな涙目

雪が降り、星は綺麗。澄みきった寒く静かな夜でしたキラキラ

徐々に 地域住民が避難してきました。その日は、職員もみんな泊まり込み。

津波警報は、何度もありました。職場からは山しか見えないので、ワンセグTVをみたら、火の海と化す気仙沼ドンッメラメラ 仙台荒浜の波信じがたい津波。 眠れぬ夜をすごしました。

翌朝45号線へ出ると、歌津伊里前壊滅、しずがわ方面も壊滅ドクロ
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両サイドへの道がなくなり孤立化。生きているだけで幸せ者だと思いました
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ラジオから南三陸の情報は、一切なし。完成孤立。
携帯もつながらず、混乱。
気仙沼の友人の安否も確認出来ない日々。信じるしかないショック!

ヘリコプターが いつもより近くの上空を飛んでいたので、わたしは、一人で必死にアピールパーパー

ここの存在を知ってほしい思い。 すると、ロープで二人おりてきた宮城県警。ものすごい風の中、着地を待つ。

施設長が、今の所は物資の依頼だけと伝えたらしいが、看護師の想いは違っていた。それを聞いたわたしは、レスキュー隊に待機してもらい、ナース確認。結局は施設長の指示通りということで、レスキュー隊を見送った。


数日後から自衛隊がきたり、物資も届くようになった。

相変わらず続く 余震にも、みんな慣れてきた。

4日目に、なんとか山道を通り帰宅。
久しぶりに親と再会し、無事である事にε-(´∀`*)ホッとしました。海から5キロ離れた我が家まで波の爪痕がありました。

あとは、友人たちが生きてるのか、そればかりが気になりつつ 着替えを持ち、すぐに職場に戻りました。

続く


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