デビュー35周年を迎え 当時を振り返っています。
コロムビアレッスン生募集のオーディションでは、ポップスと演歌の2曲を歌い合格したので レッスン生時代も両ジャンルの歌を勉強してましたが、私のデビューを決めてくれたのが演歌制作の中村一好ディレクターだったため、歌謡曲・演歌制作からのデビューとなりました。
その時のお話しは以前のブログ「歌手への道Part1」に書いてあります。
当時高音のロングトーンが得意だったので、制作サイドは森昌子さんの「越冬つばめ」のような曲が合うと、同じ作詞家作曲家の先生に依頼。もろ越冬つばめ路線の「サロベツ絶唱」
そして3拍子の抒情歌「緑の詩集」の2曲が出来ました。
人生初のレコーディングまずはオケどり。カラオケ録音です。
最近はPCなどで制作した打ち込みの音が多いけど、当時の演歌界は生音が主流。
広いスタジオの中にたくさんのスタジオミュージシャンの方々。その光景は圧巻!
バイオリンの人達も20人以上で、まるでオーケストラのよう・・・今思うとすごく贅沢!
そしてついにピアノでしかレッスンした事のなかった私のデビュー曲にアレンジがつきます。
バイオリンの綺麗な音が流れてきた時「私のデビュー曲の為にこんなにたくさんの方々が集まり、そしてこれは私のオリジナルの歌なんだ~」と思ったら、歌手を目指してからの事が色々と思い出され、感激屋の私はそれからずっと涙・!
終了後レコーディングの予定でしたが、涙で鼻がつまり結局日を改める事に・・・
これだけ多くの人の手を借り曲が完成する様をこの目で初めて見て、プロの世界の真剣さ 憧れの歌手に本当になれるんだという喜びでこの時私は幸せの絶頂に
しかし喜びも束の間、プロの世界の厳しさが私を待ち受けていました。
私のデビューまでの道のりは本当に遠かった・・・
サテ、感激の涙のお陰で翌日になったデビュー曲のレコーディング!
まずはA面候補(当時はレコード盤)の抒情歌「緑の詩集」から・・・
こういう穏やかなワルツの曲調はテンポがゆっくりなので、音程にしろ発音にしろ粗が目立ちやすく、リズムにアクセント、言葉に色をつけたっぷり歌わないといけないのですごく難しい。
今でこそ歌う上でのポイント(注意点)もわかりますし、いろんな歌い方も出来るようになりましたけど、あの時の私は素人同然。何回か通しで歌い録音した歌をチェック。
「君はどんな歌い方をしたいのか」「朝川ひろこの歌とはどんな歌だ」と中村ディレクターに言われたのですが、当時の私は、歌は1通りの歌い方しかないと思ってましたから言われている事が全く理解出来ませんでした。
おまけにこの歌詞♪北国の~♪で始まるのですが、北国の「ぐ」が違うと言われ、歌い出しから訳がわからず私の頭は大パニック!せっかく広い素敵なスタジオでの録音なのに、それからはスタジオには入らずコントロールルームのディレクターさんの隣で♪きたぐぅーにのぉ~♪「違う」♪きたぐぅーにのぉ~♪「そうじゃない!」の繰り返しを3時間!
結局初めてのレコーディングは進歩なくこれで終わり。なんと37日の延期となりました。
当時の日記を見てみるとその間、短大のテスト週間。入部していた映画研究会の合宿。
レコーディングも終わってないのに、あちこちで朝川ひろことして歌の仕事をしたり、挨拶回りとフル活動!
しかし寝ても覚めても頭の中では♪きたぐぅーにのぉ~♪がグルグル駆け巡り、自分が情けなくて布団の中で何度泣いた事か・・・たまらず母親に「もう、どう歌ったら良いのかわからない!初めからつまづいて、こんなんじゃ歌手になれない!無理だ!ついていけない!やめる~」と涙、。「それなら辞めれば・・・」と母は一言。
プロの世界は生半可な気持ちではやってゆけない世界なんだと実感し、肝に命じて迎えた2度目のレコーディング!
そこにはなんと私が尊敬していた当時引退中の都はるみさんがいたのです。
感激でただ驚く私を前に、はるみさんは私のデビュー曲をたった3、4回聞いただけですぐに鼻歌のように軽く歌いました。
あの時はまだ若かったけど何故か胸に来るものがありました。
恐れ多くも歌唱指導をして頂き、録音こそしなかったけど(今思うと残念!)はるみさんの歌を思い出しながら丁寧に歌いました。はるみさんのお陰でなんとか第1歩はクリア。
結局2ヶ月間の間にレコーディングする事5回。時間にしたら25時間ぐらい!ようやくデビュー曲2曲が録音出来ました。
しかし厳しい現実はまだまだ続く・・・いつもこのパターン!キツかったなぁ~