異国のキャンパスで“ルーツ”を履く

インター校スニーカー事情

東京のインターナショナルスクールの休み時間。校庭を見渡すと、足元に各国のカラーがちらほらと見える。日本の生徒はオニツカタイガーやアシックス、スイス人はON、ドイツ系の子はアディダスやプーマ、フランス人はサロモンやルコックスポルティフ、アメリカ人はニューバランスやナイキ、中国の生徒はアンタやLi-Ning。

 

「みんな、自分の国のブランドを履いているんです。特に意識してるわけじゃないけど、気づいたらそうなってた」(カナダと日本のダブル、16歳)

 

実はこれ、ここ数年で静かに広がっている“現象”だ。単なるファッションのトレンドではなく、“自国ブランド履き”が、インター校という多国籍空間でひとつのコミュニケーションツールになっている。

愛国心というより「さりげない主張」

当初は「愛国心の表れか」と見る向きもあった。しかし実際に生徒たちに話を聞くと、そう熱い思いはあまり感じられない。

 

 

「ドイツにルーツがあるって言うと、サッカーとかビールとか聞かれるけど、アディダスを履いてると『お、本場だね』って一目でわかってもらえる。それぐらいの軽い感じ」(ドイツ人父・日本人母の男子)

 

むしろ彼らの口調は、“遊び”や“アイデンティティのパロディ”に近い。自分がどこから来たかを、言葉ではなく“足元”で示す。それは一種の自己紹介ゲームであり、同じ国の仲間を見つけるシグナルでもある。

 

「中国人の友だちは、わざとアンタの限定カラーを履いてきて、『これ、中国だけの発売なんだよ』って自慢げに見せてくれる。別に政治的な意味はなくて、コレクション感覚だね」(米国出身の17歳)

 

 

スニーカーが“国籍カード”になる瞬間

面白いのは、この習慣が“他国の目”を意識している点だ。日本の学校で日本のブランドを履くのは目立たない。しかし、アメリカ人やインド人が集まるクラスで、あえてオニツカタイガーを履くと、「あ、この子日本出身なんだ」と自然に認識される。

 

つまり、スニーカーは“視覚的なパスポート”として機能している。制服が共通でも、足元だけは多様性が許される。その小さな“抜け穴”を利用して、生徒たちは自分を位置づけている。

 

「僕はスイス人のONを履いてるけど、それだけで『アルプス育ち?』って話しかけられる。実際は生まれも育ちもシンガポールだけどね(笑)。でも、それがきっかけで会話が生まれるのは楽しい」(スイス国籍・シンガポール育ちの男子)

なぜ“バッグや服”ではないのか?

では、なぜスニーカーなのか? 洋服やバッグでも同様の主張は可能だ。しかし、彼らはあえて“履き物”を選ぶ。

 

 

「服は親が選ぶことも多いし、バッグは高級ブランドになると“お金”の話になる。でもスニーカーは自分で選べて、価格も幅広いし、何より毎日履くから一番“自分のもの”になる」(フランス人女子)

 

さらに、スニーカーは“実用性”と“象徴性”のバランスが絶妙だ。毎日使うからこそ、そのブランドに対する愛着や慣れが自然と滲む。また、国によって「良いスニーカー」の定義が微妙に異なることも、話題を呼ぶ。

 

「日本のアシックスはクッション性が違うって、陸上部の子が言ってた。そういう“品質の国民性”まで見えるのが面白い」(アメリカ人男子)

アイデンティティの遊び場として

この現象の本質は、“アイデンティティを軽やかに演じる”ことにある。深刻な民族意識ではなく、自分という存在を他者に伝えるための“記号”として、国産ブランドが使われている。

 

 

「私は3カ国にルーツがあるけど、スニーカーはその日の気分で変える。今日は日本っぽい気分だからアシックス、明日はアメリカンな気分でニューバランス。それくらい自由でいいと思う」(複数国籍の女子)

 

彼らは固定されたアイデンティティを背負うのではなく、“着替えるアイデンティティ”としてスニーカーを履いている。その柔軟さこそ、国際社会で育つ彼らならではの感覚かもしれない。

広がる足元の外交

このブームは、やがて時計、さらにはヘッドフォンブランドにまで広がる可能性がある。すでに「フランス人はルコックよりフィラ派」「中国人はナイキよりアンタにこだわる」といった細かな“派閥”も生まれている。

ある教師はこう話す。

 

「彼らはスニーカーを通じて、自分のルーツを紹介し合っている。それがきっかけで、その国の文化や食、歴史に興味を持つ子もいる。足元から始まる国際理解――なかなか悪くないでしょう?」「しかも、スニーカーって結構いろんなブランドがあるのですね」

 

次にインター校を訪れたら、ぜひ足元に注目してみてほしい。そこには、パスポートには書かれない、もうひとつの“国籍”が輝いているかもしれない。