前回、前半部分をブログにだしていましたが、その後半です。
「会話が苦手な生徒たち。それは学校内だけの問題ではない。大人になっても苦手。大人が子どもにも会話をしないことを強いている。そして、教育とは矛盾していく。面接も苦手になって受験に影響する」です。
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さて、
三つ目は、議論や主張のスキル不足です。
仮に「声をかけたい」という気持ちがあっても、どのように言葉にすればいいのかがわからないという生徒が非常に多いのです。日本の教育は、正解を導き出すための「受け身の学び」には長けていますが、自分の考えを組み立て、それを他者に伝え、対話を通じて協力していく「能動的な表現力」を育てる機会が圧倒的に不足しています。
その結果、困っている同級生に対して「大丈夫?」と声をかけるという、ごく自然な一言でさえ、「どう言えば相手を傷つけずに済むか」「余計なお世話にならないか」 という過剰な不安が先に立ち、結局何も言えなくなってしまいます。また、自分の意見や気づきを言葉にする訓練が不足しているため、「気づいてはいるが、言えない」 というもどかしい状況が日常的に生まれています。
本来、学校は「間違ってもいいから、とにかく言ってみる」という試行錯誤の場であるべきでしょう。しかし現状は、発言をためらい、沈黙が続くことが「良い雰囲気」とされる風潮が強く、結果として議論のスキルそのものが育たないという悪循環に陥っています。声をかける「勇気」の問題である前に、そもそも声をかけるための「技術」が十分に教えられていない。これが三つ目の、そして最も構造的な壁なのです。
教育において「自分で考えさせる」ことは確かに重要ですが、子どもは時に、自分が困っていること自体にすら気づいていないことがあります。迷っていること、間違っていること、混乱していることを自覚できずに、ただ闇の中でもがいている状態です。掃除の場所が分からずに立っている子も、文化祭の役割が分からずにいる子も、「助けて」と言うことが恥ずかしかったり、どう言っていいか分からなかったりするのです。
そんなとき、隣の席や同じグループの仲間が「一緒にやろう」「こっちの区域を担当するよ」と優しく橋を架けることで、初めてその子は救われ、学びの糸口が見えてくるものです。ここで大切なのは、小さな「ひと言」を積極的にかける勇気です。それは決して、相手を見下したり、答えを安易に教え込んだりする行為ではありません。教えるとは、「あなたの困りごとを、私が共有してもいいですか?」という優しい意思表示に他なりません。
また、分からないことを分からないとたずねることも、主張や議論のスキルを活用できます。なぜなら、「わからない」という一言を発すること自体が、一つの明確な「主張」 だからです。それは、「自分は今、この地点で理解が止まっている」という自己認識を他者に伝える、立派なコミュニケーション行為なのです。しかし、多くの生徒は「わからない」と言うことを、自分の能力の不足として恥ずかしく感じたり、周囲に迷惑をかけることだと恐れたりします。特に、周囲が理解しているように見える空気の中で、一人だけ「わからない」と口にすることは、高い心理的ハードルを要します。
ここで必要なのは、「わからない」をネガティブなものとして捉え直すことです。本来、学びの本質は「わからない」から「わかる」へと向かうプロセスにあります。「わからない」は出発点であり、成長の種です。分からないことを尋ねる行為は、自分の疑問を明確な言葉に変換し、相手に伝えるという高度な思考と表現の訓練でもあります。つまり、質問すること自体が、自分の理解を深めるための主体的な議論への参加なのです。
コミュニケーションスキルと、議論・主張のスキル
コミュニケーションスキルと、議論・主張のスキルは、しばしば混同されがちですが、本質的には全く異なるものです。コミュニケーションスキルとは、一般的に「相手と円滑に関係を築く」「誤解なく伝える」「共感を得る」といった対人関係をスムーズにするための能力を指します。それは「和」を重視する日本の文化において、非常に重んじられてきました。
一方、議論・主張のスキルとは、自分の考えを論理的に構築し、根拠を示しながら他者に伝え、異なる意見と向き合い、時に自分の立場を明確に主張する能力です。これは単に「うまく伝える」ということではなく、「何を伝えるか」という中身と、「なぜそう考えるのか」という論理の構造が問われます。
ここで重要なのは、小中高校の教育において、優先すべきは後者の「議論・主張のスキル」 であるという視点です。なぜなら、コミュニケーションスキルは、生活経験や人間関係の中で自然に磨かれていく側面が大きいのに対し、論理的に考え、言葉で構築し、異なる意見と向き合う力は、意図的な教育なしには育ちにくいからです。
現在の日本の教育現場では、「相手を傷つけないように」「空気を読んで」「和を乱さないように」というコミュニケーション重視の価値観が強く、その結果として「議論」そのものが忌避される傾向にあります。コミュニケーションスキルも、議論や主張のしかたも教えられていないうちに「空気を読まなくてはいけない」という強制は非常に困難です。
本来本当に子どもたちに必要なのは、自分の意見をしっかりと持ち、それを言葉で表現し、他者と対話を通じて思考を深める力ではないでしょうか。
学校は「間違ってもいいから、とにかく言ってみる」場であるべきです。コミュニケーションを主体とした授業は、最終的に「正解を導くための受け身の学び」に陥りがちですが、議論や主張を主体とした授業展開は、子どもたちに「自分の頭で考える」という主体的な学びの姿勢をもたらします。
教師は生徒の間違える箇所をリアルタイムで知ることで、授業の展開を調整できます。テストを実施するまで待つことは無意味ですし、テストが過ぎればすでに他の単元に移り、振り返り学習が行えません。
直接授業の中で議論があり、反論され、考え直し、また主張する。そのプロセスこそが、自分の考えを鍛え、他者の視点を理解し、より深い学びへと導くのです。子どもたちが将来、多様な価値観の中で生き抜いていくためには、コミュニケーションの「うまさ」よりも、議論の「たくましさ」 を育む教育が今、求められています。
「空気を読む」だけでなく、「言葉で伝える」こと。それは、教室という小さな社会における最も基本的なコミュニケーションであり、教育の根幹をなす行為です。私たちは、「静寂を守ること」よりも「困っている人に手を差し伸べること」を優先できる文化を、学校の中で育んでいくべきではないでしょうか。たとえそれが少しのささやきや雑音を生んだとしても、その「生きた音」こそが、本当の意味での学びの証なのです。
私たちはもっと、ためらわずに「教えあい」「声をかけあう」文化を、学校の中で育んでいくべきではないでしょうか。
誰かが困っているそばで、「どうせそのうち気づく」と見守るのではなく、「大丈夫だよ、一緒にやろう」と優しく手を差し伸べられる人でありたいものです。それが、子どもにとっても大人にとっても豊かな学びの環境をつくります。





