最近、「引き際」という単語がふと心によぎります。
超一流のプロスポーツ選手ならば、「引き際の美学」が話題になりますが、
プロスポーツ選手のほとんどは、自らの意思とは裏腹に現役生活の終止符がうたれます。
プロスポーツの世界の厳しいところです。
普通の人は、誰しもが衰えていきます。
「自分は元気だ」と思って振る舞っていることが、はた迷惑になっていることに気づかず、
本人は、「まだまだ」的な姿勢でズルズルと今の地位にしがみつく、古くさい感覚のご老体も少なくありません。
私は、そうした振る舞いの無粋さを重々承知しているつもりです。
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私は、今の環境を振り返ると引き際を間違えたのではないか? と自問するようになりました。
私は、前職を定年退職し、次の会社に所属して一般社団法人の会長を8年務めています。
私たちが理想とする建設生産方式である「価格開示方式」の理論の正しさを証明するために8年を要しました。
そうであれば、私の使命が終わり、そろそろ誰かに後を繋ぐのが良いと思っています。
誰でも第一線で陣頭指揮を執る立場から退く際には、少なからず軋轢が生じ、さまざまな葛藤を抱えるようです。
老人の数がふえるにつれ、日本の生産人口が激減していますので、元気のいい老人には、
「年齢にふさわしい」という言葉が当てはまらない時代になりつつあります。
それを良いことに、まわりの人は、お世辞のひとつもいうので、それが判断を間違え、老害を引き起こすことをよく見かけます。
いま考えると、ずいぶん残酷な風習に思えますが、現在では、会社の定年ともいうべき、「姥捨て」が行われています。
私は、自身の定年当時、若い人が当然の掟として、見ている光景がそれほどショッキングなことではなかったような気がします。
それこそ、従容として棄てられていった定年者もたくさんいたのではないでしょうか。
老いるにしたがって、余分なことを感じなくなることはありがたいことで引き際を、これをうまく利用していけたらと思います。
老いた者には、老いた者としての立ち回り方があり、引き際があります。
そうした「よりよく老いていくための作法を磨く」ような意識も、
残りの人生を真剣に考えるからこそ生まれてくるものなのかもしれません。
それでも、私は、若々しい考え方をもって、進退を貫き、今後来るであろう老成の境地に至りたいと思います。