小さい頃、僕の実家の近くには沢山の遊び場があった。

空き地や、整備されたグラウンド、そこを更に登ると雑草生い茂る草っ原に道が一本。川のおこぼれで出来た小さな川にはザリガニが沢山居て、何度もそこに靴のまま入った事やヘビイチゴを見つけては虫かごに入れた虫達に食べて貰おうと挑戦し続けた事、沢山の思い出の遊び場があった。 


 その中の一つに小さな湿原みたいな場所があり、雑草と大きめの舗装された水路がある遊び場、通称ピアノの森があった。何故ピアノの森というかというと、湿った草と木漏れ日の間に大きなグランドピアノがどでーんと置いてある、訳では無い。なぜそんな名前なのか全く分からない位に草と木と水しか無かったが、もしかしたら子供達の間でしか呼ばれていない名前だったのかもと今となっては謎のままだ。


 何故かそういう遊び場に一人で遊んでいた思い出が沢山ある、一人でトンボを捕まえ虫かごに入れて、一人で修行と称して木を蹴り続けたり、一人でボールを水路に落として、一人で水路を降りてボールを取って一人で帰って、家のお風呂場で一人で足を洗う。当時の友達も居る筈なのに何故一人で?虫を取った功績を自慢出来る弟も居るのに何故一人で?遊んでる時に知り合いが現れたら恥ずかしいという事を想像してなかったのかい?と過去の自分に対して心配になる。

もしかしたらそこに友達だったり家族もいたのかもしれない、だけど我武者羅に無我夢中に遊んでいて周りの事なんて見えてなかったのかも、と思ったりもする。

もしそうだとしたら中々に羨ましい、だってそんなに集中する事は中々無い気がする。

周りが見えないくらいに没頭して、その時を思い返す時は自分一人しかいない、映画のワンシーンみたいになる様な事を。若しくは本当に一人でずっと何かに没頭した事を。

必要か不必要かは置いといてそうゆう感覚をまた体験したいと思う様になった。

意識的に周りを遮断して集中する時間を作ってみてもあの時と違うと感じがするのは何でだろう、また数年後に今の自分を思い出した時、あの時は周りを何も感じなかったなあと時間が経ってから同じ感覚になれるのだろうか。それともただ純粋にやりたい、遊びたいという気持ちが消えてしまったのだろうか。

どうなんだろう。良いか悪いかは置いといて。

どう思いますか?

これは未来の自分へのメモかもしれない