価値があるかないか・・・・。
人は勝手なもので”価値”があると思ったものは大切にする。
逆に価値がないと判断したものは雑に扱う。
それは”刷り込み”や”洗脳”でも贖えない。
今、日本国民はバカになっている。
他者に気遣うことができない。人に優しくなれない。
そんなバカが溢れ返り、わがままな奴が街を闊歩する。
なぜそうなるのか?
”自分に価値がある””自分さえよければ”という考え。
これは客観的に見ると低能で生きるセンスがない。
学生の頃ならばイヤイヤでも相手にしなければいけない。だから、そういう奴は勘違いしてしまう。
相手がイヤがっていても自分を相手にしてもらえると勘違いする。
しかし、大人になって恋愛や結婚、子供のことを誰もが考えるようになる。
わざわざそんなイヤな奴に連絡したり相手にするだろうか?w
答えはNOだ。
社会に出ればまったく相手にしない。
上辺だけで話を合わせることがあっても心が通じ合うことはない。
つまりそういう”わがまま”な奴、自分勝手、人に迷惑をかける奴は周りからみれば極めて価値が低い。
学生時代に偉そうにできたのは”それでも存在できたから”。
社会に出て、一番優先されて価値がある人物というのは社長だ。
社長の言葉は社員全員が聞く。例えその判断が間違っていたとしても社長の言葉こそが真実であり絶対的に守るべき貴重な存在になる。
じゃあ学生時代にえばっていた奴もわがままな奴も学生のときから”価値”がなかったということになる。
フラットな人間関係の中でバカが勝手に”俺が一番”と思っていただけなんだ。
でも、どうしてそんなバカ、わがまま、自分勝手、自己中心な人間が増えたのだろうか?
それは裏を返せば国、政治家が自分たちの利権や私利私欲を優先したためだ。
ニュースや表向きの言葉がどれだけ素晴らしかったとしても裏で悪いことばかりやる政治家や国の在り方をお手本としてバカはそれを真似る。
そして、自分さえよければいい、勝手気ままにやってもいいんだと思い込む。
本当は国の行先を決める存在を尊ぶはずなのだがそれができない。
今となっては学校の先生ですらバカ親やバカ子供からすれば疎ましい存在なのだろう。
一部には教師にふさわしくない人格者もいる。
若い女の子が好きだから女子高の先生になったとかね。
不純な動機でそのままそれを自分の職業にしてしまうというのは哀れにも見える。
”若い女の子””女子高生”に価値を見出したから教師になる、そのエネルギーは凄いなぁ、しかし、バカだなぁとただただ感心する。
それで生徒に手を出して捕まったり解雇されたときにそいつらはどう思うのか?
ああ、失敗した。もっとうまくやればよかった、とでも思うのか?
もはやその時点で社会や常識を重んじてはいない。それが教師であれば生徒に与える影響は大きい。
民主主義とは国民の価値がバラバラになるシステムでもある。
統一感がなくなり各々勝手に自分が好きなものを優先するようになる。
ここで必要なのは義務教育ではなく、まともに自己実現を目指せるようになるシステムだ。
詰め込み式の頭の体操をする時代は終わったんだ。
今、価値があるのは心の育て方ではないか?
それこそが人生を豊かにする。
きっと大きな価値があり人生を導いてくれる質の高い意識、思考というのはなかなかみんなが手に入れられないところにある。
一歩ずつそこへ近づく努力をしなければたどり着くことも手に入れることもできない。
崇高な魂のみが新しい次元へ行けるのでは?
死んだあとの世界は本当にないのだろうか?
いや、たとえ肉体が滅んでも質量がゼロであったとしても意識は違う場所へ移行するだろう。
無へ変換されたとしてもそれは本当の意味での無ではないような気がする。
ダークマターと同じで目に見ることも触ることもできないが存在するというのと同じだ。
この完璧な宇宙で必要なものだけが存在しうる宇宙で本当の無など存在しないんじゃないか?