蝶となる日を夢見つつ☆多田晴美 -34ページ目

蝶となる日を夢見つつ☆多田晴美

これまで長い間
人の話を聞く場に関わってきました
現在は、1対1で
立ち位置を確認する時間だけを
静かに続けています

さんざん苦しみつつも

余命宣告の3カ月をこえて

生きて

7月の68才の誕生日も迎え

28日の朝
父と

上の弟と
私が
見守る中

母は、現世から旅立っていきました。




入院中ずっとと
「今夜が峠です」と言われてからも

苦しむ様子を見るにつけ

「もうラクになっていいよ」と
言ってあげたい気持ちと

いつまでも
居なくなって欲しくない想いとの
せめぎ合い。


どちらも選ぶことができない
ずっーとずっと複雑な想い。
 


でも、この世と別れた顔を見れば

 

とてもとても穏やかな顔で

「ようやくラクになったんだなー」
と思い安心できました。


この後
泣く暇もなく

葬儀と
その後にする諸々


そして、1人になった父が
思った以上に大変でした。

 

「起業への道のり3 」
1人暮らしになった父① 家事をしたことがない へ

 

 

 

 

毎日行くと決めているのに

仕事も休ませてもらっているから
時間があるのに

なかなか家から出られない。

ぐずぐずしてしまう。

つらい現実を
見ないといけないのが
ツラい…


一番辛いのは
残りの命が短いと言われ

その上
痛みが激しい母なのに…


見るのがツラいというのか

私には、どうすることも出来ない状態が
なんとも気が重くて
しんどい。

なかなか動く気にならなくて
家を出ようと思っていた時間になっても

病院へ向かえない日が多かったです。



2度目の手術後の母は
一進一退を繰り返しながらも

病状は、進行していき


今までの環境から変わったことによる
妄想や幻聴が出るようになり

来るはずのない人が
「やってきた」と
おびえるようになります。


それから
がんの進行とともに

激しい痛みを訴えるようになり

やせ細って
体も弱っていて

どこにそんな力があるのか?
と思うぐらいの体になっているのに

ベットの上でのたうち回り
「痛い!!痛い!!」と
わめき叫ぶ毎日。

普通の鎮痛剤では効かず

モルヒネ的なものでも効かず…


それでも
人に当たったりということはしない母でしたが

「私、何も悪いことはしていないのに
なんでこんな目にあうんやろう?」
 
と話すときがあり

それについて、何も言えない自分が
申し訳なかったです。




それでも
最初に自分で決めたように

病院へ行かない日はなかったのですが

「何もしてあげられない」
つくづく自分の無力さを
感じました。

 

母の入院⑨母の旅立ち へ

 

 

 

 

 

医師から
がん告知を受けた時の母は

ある程度
覚悟ができていたのか
冷静に聞いているように見えましたが

余命宣告は
母が思っていたよりも
短かい時間だったんじゃないかと
思っています。
 

それでも
父の意向と同じように

腸閉塞をさけるための手術と
その後の抗がん剤治療に同意。

気丈に振る舞っていました。



腸の状態は
予断を許さない状況のため
その後、最短の日数で手術。



ここまでは
予定どおりだったのですが

手術後
痛みが治まってきてもよさそうな
時期になっても
痛みを訴える母。


そういうものなのか?
と思っていたら

切除後につないだ腸が機能せず
ちょうど1週間後に再手術。


67才という年齢の体が
若いかどうかは時と場合によると思いますが

ただでさえ弱っている体での
再手術は
かなりこたえたようで

その後の入院生活に影響していきました。

 

 

母の入院⑧ 病院へ行こうと思うのに行けない へ

 

 

 

夫の提案から
職場の理解も得られて
休職。


何か奇跡のようなことが起きて
母の病気が治らないか?

そんな淡い期待は抱きながらも

現実的には
母に残された時間は
たった2カ月~3カ月の可能性が高い。


病院は、完全看護のため

必要な時に行くだけでも良かったのですが

残り少ない母との時間を大切にしたいと思い

私は
「毎日、病院へ行く」と決めました。




母もなんとなく入院の予感はあったようで

幸いにも
私の自宅から
車で20分ぐらいの病院を受診してくれたため
通いやすかったのです。


仕事は休めたものの
息子のサッカーの幹事の方では
土日は、早朝から試合
帰宅は夜になることも多かったのですが

少しの時間だったとしても
顔を出すようにしていました。



また、あらためて
母の容態についても書きますが

途中からは
母に付き添う父が
一時も離れようとしないため

父の体調も、心配な状態に…


そのため
父を母から引き離す必要も出てきつつ

少しの時間しか行けない時も

最初に決めたように
毎日病院に行っていました。

 

母の入院⑦ 余命宣告後の母 へ

 

 

 

これらのことがあった
2004年3月

家から
車で出かけると

三叉路のちょうど正面にある
数本の大きな桜の樹が満開でした。
 

咲き誇って
とてもとっても美しい
桜を

来年の春に
母は見れない可能性が高いという現実。
 

まだまだ
いつまでも続くと思っていた命を

後2,3カ月と
区切ってしまう

現実の残酷さが

ショックでショックで…
 
 

車から
桜が見えるたびに
涙が流れていました。

 



できれば
がんが無くなって
母には、元気になってほしい。

いつまでも長生きしてほしい。

それが、私の
そして
みんなの願いであったものの

実際の状況は

とてもいいとは言えない
状況だったのです。


母の母(私の祖母)が存命中だったこともあり

人が亡くなるのは

年齢順ではないと知りながらも

母の命の火の方が
先に消えそうなことが

とても理不尽で理不尽で…
 

今は、もうそんな事はありませんが
母が亡くなって
5年ぐらいは

春に桜を見るのは

当時のことを思い出して
つらかったですね。

 

母の入院⑥ 残り少ない時間 私は毎日病院へ へ

 

 

 

この時
結婚12年目
子供は小学5年生
夫41才

世代的にも
夫は、家事はしていなくて
仕事の付き合いも多く

毎晩、遅く帰ってくるのが
普通で

一緒にご飯を食べるのは
夫の休みの日だけ。

そんな生活で
 
家事全般と子育ては
私がしていて
 

当時の仕事は
在宅のヘルパー(訪問介護員)でした。



ここに
母の入院と手術


家事全般したことがない父の生活が
加わるわけで

実は
子供が所属しているサッカーチームの
なかなか業務が多い
幹事役も
4月から1年間務めることが決まっていたのです。


どうするもこうするも
何の手立てもないままに

漠然と 「全部やるしかない!」
と思っている

私に

ここで、

今思っても
ナイスな提案!を

夫がしてくれます。


「急だけど
サッカーの幹事か
仕事辞めるか休むかできないの?

あなたの体が、一番心配やわ。」

(あ、でも
夫が手伝うとかいう話は
これぽっちも、なかったな 笑
 ↑
お互いに
それは無理って
思い込んでいたんでしょうね。)


それで
急に辞めたりすれば
迷惑がかかるのは
わかっていながらも

在宅のヘルパー(訪問介護員)の仕事は
1対1のため

急に穴を空けてしまうことが
一番対応に迫られて大変なことから

上司に
ダメ元で、休職を願い出ます。
 

※私は、常勤ではなくて
非常勤(パート) 形態だったので

基本、一定期間休むという選択肢はなくて
出勤できない=退職です。
 

それでも言ってみるものですね。

ありがたいことに
「落ち着いたら、また働いて欲しい」と
言ってもらえて

落ち着くまで
出勤しなくて
いいことになりました。
 

また、その後でも
こういう経験をするのですが

うちのダンナさんは
こういう有事には
私に協力的な人です。

 

母の入院⑤ もう来年の桜を見ることはないという現実 へ

 

 

 

父が決めた結論は

「がんと闘って欲しいから
(本人に) がん告知することを選びます!」

母が緊急入院してから
担当医の話を聞くまでに
よくよく考えていたことかも
しれないけれど

私には衝撃的だった
本人へのがん告知。
 
だって
2,3カ月しか生きられない
って言われてるんだよ!?
 

父が
それを決めた理由は

「自分も、がんだったから!」
という

まさかのカミングアウト!


「えーーーー!
そんなこと聞いたこともないよ!

何?
ウソ言ってんの?」

 

そう言えば
父は
私が小学生の頃から

胃潰瘍を患っていて

たしか私が高学年ぐらいの時に

手術を予定していたにも関わらず

手術日当日に
「やっぱり手術はやめる!」と
ドタキャンをして
(この時はビックリした!)

その後、何年間も
食事療法と
服薬を続けていた人でした。
 
 

食事もね
玉子豆腐ぐらいしか食べられなくて
この時に見ていた影響で
私は玉子豆腐が苦手です。


そんな風に
私たち兄弟や周囲の人に
たぶん職場にも
胃潰瘍と言っていたのが

実は
がんだったというのです。


その後何年もかかっているけれど
がんを完治した父としては

母もそうなって欲しいという思いからの
本人への告知なのでした。


その時に父からあった
もう1つ衝撃だった言葉は

「そのがんで
手術しないといけないという時期に

実は
4人目の子が母のお腹にできていたけれど
(私は弟2人の3人兄弟)

すでに子供が3人いて
大きくなるにも
まだまだ時間がかかる。

ここで
父に万一のことがあれば

母一人で4人の子供は大変すぎるので
産むのをあきらめた。」

と言うのです。


私の子供の頃は
がんになる人自体がめずらしく
恐れられていた時代

そう考えても
すごく当たり前な頃でした。
 

で、えーーと!

ただでさえ
母の余命宣告で

ドラマの中のような出来事が
自分の身に降って湧いて

その上に
知らなかった事実が
次ぎ次ぎと出てきて

衝撃すぎてしんどいながらも

やっぱり
ドラマの中の出来事のようで

現実を現実と
受け止めにくい
状況だったのを覚えています。

 

母の入院④ その時夫は へ

 

 

 

父からの突然の電話の数日後

病院へ行き

担当医師から

母の余命宣告を受けました。


その時
母は、67才

S状結腸がんの末期で
後2,3カ月の命。

にもかかわらず

今にも
腸閉塞を起こしかねない状態なので
すぐに手術が必要な状況。


それから
当時は

本人には
がんであることを知らせない方が
まだ多かった時代であったため

医師からは
本人へのがん告知も含めて

「どうされますか?」
と聞かれました。
 


その時の私は
まさか

余命宣告を受けるとは思わずに
病院へ行っているものですから

なにもかもが
あまりにもショックな出来事!


でも
目の前のことは
実際に
すぐ決めないといけない事ばかりでした。
 

母が受けるであろうショックと
辛さを考えると

がんであることは
知らせたくない。
 
けれど
この意気消沈し
嘆き悲しんでいる様子の父が

母に病気のことを
隠し通せるとは思えない。
 

でもでも
それよりも
後2,3カ月の命やなんて
母に、とても言えないやん。

それはそれで
その間、
母に、どうやって接すればいいものか…
 
と考えを
巡らしている間に…




父が

ハッキリとした意志を
伝えはじめました。


「がんであることを伝えてください。

手術もして

これからも
生きる道を進んで欲しいから

がんと闘って欲しいから

がん告知することを選びます!」


私は、内心

一番、父が
言わないと思っていた言葉だったので

「えーーーーー!!!??」

でした!



父が、そういう結論を出すに至った理由は
後から知ることになりますが

その時は

結局、どれを選ぶのが正解とも
わからなかったので

父の選択を受け入れました。



この時から15年以上たった今では
あまりがんと闘うとは言わなくなったように思いますね。

医療の進化も時代背景も
その時々で違うから

振り返った時に
今だったらこういう選択をしなかったかもと
思うことも多いです。

 

母の入院③ 父のカミングアウト へ

 

 

 

2004年3月末の夜
父から突然の電話あり。
 
父から電話がかかってくること自体が
めずらしく

その上
電話の向こうの父は
泣いていて

言葉がとぎれとぎれ


「おかあちゃん、もうあかん

もうあかんねん。

入院した。


もうあかん。

………

先生の話 聞くのに

晴美ちゃん、一緒に行ってくれるか…」
 




母が緊急入院した
というのに

今は大丈夫だから

病院へ行くのは
2.3日後でいい

という父。


泣いている所を見たこともなかった
父が今泣いているにもかかわらず

そして
母がもうダメだと聞きつつも
すぐに病院へ行かなくていい

という所から
 

その時の私は

すごい胸騒ぎがありながらも

父は、母が入院したことを
大げさにとらえているのだ

と、思い

事の深刻さに
気づいていませんでした。

 

 

母の入院② 余命宣告 来年の桜は… へ

 

 

 

 

明日 1月21日(火)7:30~ラジオは
1人語りの回です。

私は、40才の時に
母が亡くなったのをきっかけに
私にとっての自分らしさや
私が人の役に立てる仕事は何なのか?と
試行錯誤をはじめました。



結局、起業するまでには
12年かかっているのですが…
 
その頃の話から
起業の前後の話は

今まで
あまり話してこなかった内容なので
聴いてみてください^^





放送日 1月21日(火)7:30~8:00

番組名
「はるみんのお仕事パンフレット」

【ゆめのたねラジオの聴き方】
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アクセスしてください。
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